児島聖約キリスト教会 旧礼拝堂再生工事

□ 瀬戸内海の倉敷市児島に味野という集落があり、江戸初期の干拓時、陸続きになった頃から味野村庄屋となった荻野家がある。この荻野家の屋敷を第二次大戦後スウェーデン宣教師が土地建物を購入しキリスト教会となり、半世紀が経つ。購入後分かったことのようだが、この屋敷には、十字架やマリア像をあしらった灯籠、蔵の床下に掘られた抜け穴など、荻野家が隠れキリシタンだった可能性を示す遺物があり、神の不思議な導きを感じる。

 10年ほど前には座敷と蔵を除く母屋部分を解体し、RC造平屋建の新しい礼拝堂を建築した(設計監理:ヴォーリズ建築事務所、1995年倉敷市建築文化賞最優秀賞受賞)。そしてこの春、新礼拝堂ができるまでの約40年間、礼拝堂として使われていた座敷を再生した。

 この記事では、この旧礼拝堂、即ち、かつての座敷であった日本建築の再生工事について、町田師のご好意によりその一端を皆様にご報告する。

□ この建物は山の中腹にあり、固い地盤を削って基礎を据えている。風通しがよく、敷地の南東に位置して日当たりがよい。座敷の畳に座ると、前面に日本庭園、その先に土塀、そしてその先に瀬戸内海が見えるという「庄屋」として申し分のない立地を得ていた。

 戦後は教会の礼拝堂となったが、庄屋時代の使い方は、頻繁に訪れる客人をもてなす場所であった。簡単に接待するときは手前(北)の10帖の間と奥(南)の床の間のある8帖間のみで対応し、正式な形で対応するときは、座敷で食事をした後に、併設する茶室で、お茶を楽しんでいた。

 また、この荻野家から塩田王として知られる野崎武左衛門の妻が出ており、こちらの野崎家住宅は一昨年、国の重文に指定された。

 新礼拝堂が完成した後は、教会学校や団欒の場として使われていたが、雨漏りを筆頭に使用に不便をきたす箇所が多数あり、今回の工事着手に至った。

 設計のポイントが、8帖座敷をより心地よい空間にすることであると気付いたのは、既存の建物を一人で実測し、既存の平面図、断面図を図に描いているときで、かつての設計者(棟梁)が熟慮し、精魂込めて作った8帖座敷をそのまま修繕し、その部屋の周りに手を加えることで、8帖座敷の特別性を強調しようと試みた。

 それはこの8帖間が、かつての庄屋の一番良い部屋であったということだけでなく、この部屋を残すことにより、40年間毎週説教が語られてきた場所であり、私を含めて多くの者が洗礼を受けた場所であるという記憶を繋いでいくことができると確信したからである。

 すなわち、ここでは日本建築の典型的な型ともいえる座敷空間をより質の高いものにすることが、そのまま教会建築としての魅力を高めるための回答となっている。

 そのための主な手立てを3つ用意した。

  1. 手前の部屋(10帖間)の床を下げ、寄木床板・漆喰大壁などで、和洋の対比・新旧の対比を図る。
  2. 座敷の床を半間幅で浮かせ、座敷の特別性を強調する。
  3. 南東の角をオープンにして、庭との段階的な連続性を得、日本建築特有の軒下空間の豊かさを得る。

□ 私自身にとっては、【写真1】右上や【写真2】中央に覗いている新礼拝堂建築時に、影響を受け、建築を志した経緯がある。学校では建築史を専攻し、教会建築の研究をするとともに日本の伝統的な構法についても学ぶ機会を得た。そういったことから、今回の設計監理はとても感慨深く、恩返しをさせていただいたような気がする。また、教会員は未熟で若い私に教会の大事な建物の工事を任せてくださり、勤務先の所長も快く了解してくださった。至らない点もあったが、完成後皆喜んでくださり、感謝している。

□ 江戸時代に庄屋という立場でありながら、聖書の神を主と仰いだ荻野家の人々、さらに世代が代わってこの座敷を礼拝堂として、宣教の拠点として用いた宣教師の祈りをこの座敷は受け継いでいる。

 教会設立から半世紀が経った今日、新たな形で整えられたこの建物において、かつて先達たちが抱いた、その同じ気持ちで、この建物が宣教のために用いられるように願っている。

(バイブル&アートミニストリーズ ニュースレター,2008年,写真図版は割愛)