まとめのまとめ・全4項

新しいサイトはこちらです。今後ともよろしくお願いします。
http://www.yamaguchiarc.com


下記が最後の投稿です。ここ数日まとめとしてアップしてきたものを集めました。
9月1日より新媒体に移行します。このブログ記事はすべてこのまま残しておきます。

  1. 脱産業生活由来型建築論考集・全24項
  2. 作品案内集・全4項
  3. 教会堂関係論考集・全3項
  4. 藤森照信さん関係・全3項

藤森照信さん関係・全3項

一人の人をずうっと見てきたという意味では、藤森さん以外にはいない。大学の時に教わった先生が藤森研の最初期のメンバーだったこともあり、勝手に親近感を持っていた。建築史専攻の後に設計を行なうというのは、珍しいことではなく私もそうだが、近年では藤森さんが群を抜いており、他の追随を許さず、というか、追随できない世界を築いて、孤高の存在となっている。

  1. 藤森照信先生,退官される!
  2. 藤森照信先生の門出を祝う。
  3. 伊東豊雄先生にダメ出ししてみる

おまけで、伊東豊雄さんのものもくっつけてみた。

こんなことを書いておきながら、今日は福山での「銅板曲げワークショップ」に素人と一緒に参加し、さらりと自己紹介した後に、「あなたの批評をバッチリ書いてますぜ!」と絶対聞こえないような小さな声で言ったかと思うと、「先生、写真をご一緒によろしいですか?」と、素人のように記念撮影もしてみた。小さな卒業式である。ちなみに腰に巻いているのは、作り立てホヤホヤの銅板で作った腹巻きである(笑。

教会堂関係論考集・全3項

次媒体に移るにあたり、キリスト教会の教会堂関係の論考をまとめました。

卒業論文で扱った、プロテスタントの教会堂についてのものです。普段目に触れることの無い新教の建築ということで、資料を集めることから大変でしたが、その当時既にインターネットは使えていたので、電子メールと併用して、外国から資料を集めたりしたものでした。

  1. プロテスタントの教会堂を知る
  2. これが教会堂の基本形だ
  3. 雑誌掲載;キリスト教業界誌・ミニストリー第17号
  4. 資料;2001年11月25日クリスチャン新聞第五面

歴史的理論的報告は、長久清先生の過去の著作『教会と教会堂』(2000年)や加藤常昭先生らが著した『教会建築』(1985年)などでほぼすべてが書かれていますので、ここから新しく重ねるとすれば、次の世代である私などが卒業論文で調べたことを下敷きに、もう少し礼拝学も勉強しつつ、150年前のイギリスに起こったゴシックリバイバルの時代を再考察して、教会堂としての現代的エッセンスが分かるものを引き出して、報告すべきかと自分では考えています。

150年前などと書くと、ずいぶん昔の話しとお思いかと思いますが、産業革命以後の世界というのは、地域の文化的民族的慣習的な誤差はあるにせよ、大体同じような感覚で世の中が動いており、この頃の大変化の中での当時の人たちの葛藤を追うことが、即現代に生かせるものになるのだと、推測しており、たぶんこれは当っていると思っています。いつのことやら分かりませが、自分自身が建築に興味を持つキッカケとなったものですので、ライフワークとして、取り組んでいきます。

作品案内集・全4項

次媒体に移るにあたり、作品案内をまとめました。

通常、建築系のブログと言いますと、自分の作品の経過を逐一報告したりするものですが、私の場合はそうではなく、なんとなくそういうものは、近隣地区に「住宅見学会!次の週末!自然派の現代和風住宅です」なんていう、新聞折り込みの広告を出すような、そんなカテゴリーと同じような感覚を持っていましたので、そういう報告は余り行っていませんでした。
そういうわけで、振り返ってみると、実際の作品数よりも遥かに少ない4つだけの「作品案内」となっています。なお、二番目のキリスト教会の座敷再生は、前任の楢村設計室勤務時の担当者としての実績です。

  1. 作品案内1「置き屋根と荒削りの家」(2009706)

  (写真:置き屋根と荒削りの家

  1. 作品案内2「キリスト教会の座敷再生」(2009706)

  (写真:キリスト教会の座敷再生

  1. 作品案内3「土間の家2」(2010402)

  (写真:土間の家2

  1. 作品案内4「カフェゲバ」(20120316)

  (写真:カフェゲバ

脱産業生活由来型建築論考集・全24項

以下に箇条書きするのは、「戦後の住宅生産構造を悪玉だと捉え、住宅は産業によって作られるものではない、生活から生まれるものである」とする、脱産業生活由来型建築をめざした論考集です。次媒体に移る前にまとめとして残しておきます。時系列に並べ、古いものから順に列挙しています。

建物をつくるためには、1)建築技術・サイエンスを持つこと、2)建築史・ヒストリーを持つこと、3)デザイン手法を持つこと、4)思想・フィロソフィーを持つこと、そして最後に、5)自分なりの主張・コンセプトを持つこと、の5つが必要だと考えます。通常の場合、その人が意識する/しないに関わらず、1から4までは、自ずと建物に現れてきますが、いわゆる、設計屋とか、建築家と呼ばれている部類の人には、5)が必要です。
1から4までを使って目の前の建物に自分なりの主張を込めることが5)の意味ですが、5)を持つには、相応の訓練と経験が必要で、なかなか対象とする建物に魂を入れることが難しいものです。今回の論考集というのは、5)の手前である、4)の部分を作り上げるために集中して書き続けて来たということになります。このように書くと、勉強ノートを公開してるようにも読めますが、読んでくだされば分かる通り、読む人がいることを想定して、多少のサービスもしつつ、書いています。

  1. 空白の時を超えて(20110906)
  2. オーバースペック、プラスティック、インスタント(20120314)
  3. アーリーアメリカン調の雰囲気(20120413)
  4. ヤナセ問題(20120829)
  5. 建物は土地ではない(20120922)
  6. 「西山夘三」というアシカセ(20120926)
  7. 住まいを諦めない(20120928)
  8. 改めて、「私の姿勢」(20121012)
  9. ワイルド系(20130121)
  10. 戦後の住宅生産構造の罪は大きい(20130123)
  11. 理想は核家族、ばつ。理想は大家族、まる。(20130124)
  12. 再考・土間の生活(20130501)
  13. 帽子建築宣言!(20130508)
  14. 住宅は道具である(20130516)
  15. 「産業」ではなく「生活」なんだよ(20130520)
  16. 国民の生活が第一(20130523)
  17. つくる、のではなく、ある、のである。(20130530)
  18. 閉じるのではなく、開くのである。(20130608)
  19. 私の考え方/ヤマグチ建築デザインの思想(20130617)
  20. 脱産業とは「脱サラ」のことである(20130621)
  21. 脱産業的住宅の例;モルタル下地のペンキ塗り(20130629)
  22. 脱産業的住宅の例;モルタル下地のペンキ塗りその二(20130701)
  23. 流行の製造(20130713)
  24. 反強迫観念・反プラスティック同盟(20130818)


(撮影;堂本裕樹・IMAGINE DESIGN OFFICE)

反強迫観念、反プラスティック同盟

最近知ったことだが、日本では風邪薬がバカ売れするが、欧州ではそうでもないそうで、それは、風邪というのは五日なり一週間なりある一定期間を過ぎると次第に治まり、体温も日常生活に支障がない程度で推移するものだという認識で皆が過ごしているからで、発熱したりだるくなったりするのは身体の方が正常な反応をしているからであり、その正常な反応を身体に任せて自律的に反応させてあげるのが選択すべき道であり、そうではなく、何らかの症状が出てきた結果だけに意識が集中し、その結果を治めるために薬剤に頼るというのは、ナンセンスだというのである。下痢をしたからといって下痢止めの薬を飲むのも同じで、身体が不要なものだと判断して排出しているのだから思う存分排出させてあげればいいのであり、身体がぐったりして白眼を剥いて動かなくなったりしているなら、また別だが、その状況で薬を飲むというのは、クルマを運転していてゆったりしたいからという理由でシートを奥までズラして座るのと同様で、いざという時にしっかりとハンドルが握れずそれだけではなくブレーキを奥まで踏めないのと同じであり、そんな薬の運用をしていると、いつか必ず事故に遭ってしまうということであり、いやそれ以上に、確実に身体は弱くなり身体の中に不要なものが蓄積して、その生活を数年続けて行くと、違う身体になってしまうというそんなことにも成り兼ねないという生活を多くの現代日本人は過ごしているのである。

「〜でなければならない」という感覚を過剰に持つことを、大雑把で申し訳ないが、強迫観念と言わせてもらうが、結果として出てきた事象の方に反応して、その事柄を「正常」な状態に戻すために人工的にその現象をコントロールしようとする意志を過剰に持つことを、強迫観念と呼んでみるが、原因はともかく床の木がササクレ立っていたり節があるというのは「正常」な状態ではないので、それを一生感じたくないという大胆な行動に出るのも強迫観念であり、住宅材料で言えば、その強迫観念を一手に引き受ける総合商社が石油から精製され形成される樹脂製品でありプラスティック製品である。こういうプラスティック製品の用い方に対して私は断固反対の意志を示す「反プラスティック同盟」を組織した。

ずっと「正常」がいい、というのが、大壁ビニルクロスの家であり、その方向性で「安く大きく」を追求すれば、近所に建設中の大東建託のアパートになるのであり、それが不満なら、なんとかホームの住宅になり、それが不満ならナントカ工務店の注文住宅になるのであるが、一見、中身は向上しているように見えるものの、私から見れば、すべては同列であり、その大元は、あるべき状態よ、ずっと永遠なれ!という「強迫観念」から導かれるのであり、汚れてもイケナイし、凹んでもイケナイ、そのくせ、機能しなくなったら直してあげないで、捨ててしまうというのが、「強迫観念」を軸にした行動規範である。つまりは、クロス張り替えである。

外車に乗るのは、お金が掛かるというのは、私にいわせれば、それはまるで、古民家再生工事をしたことがない工務店が、「そりゃあ、そんな改造したら、新築の二倍かかりますわあ。止めた方がええですよ!」と工事をしたことがないのに口走って仕舞うのと相似形であり、走行性能も安全性も数段上の欧州の大衆向けコンパクトカー(例えば、VWポロやシトロエンC3)を買わないのは、超もったいない話だが、欧州で普通に走っているクルマが日本で走らないわけがないのであり、いや、走るのだが、実際に日本の若い婦人層が求めているのは、目に見える収納量であったり、内装の豪華さであったり、目先の値段の安さであったりするわけだから、いくら日本車が10年遅れているとか、燃費は大差ないとか、安全性が低いとか、80キロ以上出すと不安定になると言っても、そもそもそんなことは求めていなくて、クルマならクルマとしての基本性能は求めていなくて、住まいなら住まいとしての基本性能には無頓着で論点がズレているのが問題で、論点がズレた上に、常に「正常」を強く求める意志が働くから、さらにタチが悪くなるのである。つまりは、住む前から掃除のやり方、日々のメンテナンスのやり方などに異常に興味を示すことであり、そのくせ、たいていのばあい、住み始めた後は掃除やメンテは余りしないのである。お笑いである。

10年くらい前からか、マスコミの蔑称として「マスゴミ」(マスコミはゴミだという意味をもっている)という言葉が世間を賑わせているが、最近では「ダマスゴミ」(騙す・マスゴミ)という蔑称も登場しているようで、国民を騙すことを主目的とした機関として戦後に新聞・テレビ網が整えられたことをこの名前は意味していて、団塊世代以上の新聞とテレビだけを情報源にしている一定層は別として、そうではない人たちは、戦勝国が行なった日本改造作戦の意図を大小は別として理解しており、このダマスゴミが「正常」をつくる装置であるのは、言わずもがなだが、この文章を呼んでいるあなたも、未だに牛乳が身体に良いと思っていたり、妊娠の可能性が高いから風疹ワクチンを打たないといけないと真面目に考えているかもしれないが、戦勝国の若頭であるアメリカ合衆国においての現時点での製造業というのが、住宅産業だけになっているのが象徴的であるように、その感覚はもはや「正常」ではなく異常であり、彼ら戦勝国の言いなりで国の行く道を決めてしまうと、日本からモノを作る感覚がなくなり、感覚が無くなるというのは、触れてもそれが何のか感じないことを意味しており、プラスティック製の疑似木材を見て、本物かニセモノかが分からなくなっている現代日本人の大多数の感覚というのは、私に言わせれば、異常な清潔感覚と強迫観念が造りだした危機的状況なのである。

マスゴミに対して文句を言うのではなく、ダマスゴミ自体も戦勝国のパシリであると言う理解をした上で311以降の日本を生きなければならず、311の福一水素爆発が一回ではなく三回の爆発音が聞こえていたり、911のツインタワーがとてもキレイに解体爆破されたことなども思い出しながら、しかも、土と木に親しみながら、ワンパクでもいい、逞しく育って欲しい、と反プラスティック同盟の会長であり、二児の父親である私などは思うのである。

(お知らせ)このブログは、建築ブログでありますが、同時並行的に同じような思想を持つものを扱い、産業革命から紐解き、どのようにすれば日本らしい住まいを構築できるのかを徒然と綴った建築随想です。なお、次回以降は、他媒体に移行しますので、「はてな」での掲載は、今回が最後となります。はてなさん、ありがとうございます。次回は9月1日に更新の予定です。

流行の製造

流行、という言葉が当てはまるのは、実用品以外の贅沢品と言おうか、奢侈なものと言おうか、そういった領域に当てはまる言葉であるが、消しゴムは奇麗に消せることが大事で、衣服は身体にフィットすることが大事なのだが、そこには、技術的な前進は幾らかあったとしても、それだけであって、必要な大きさや使い方が大きく変わることはない。
中学の卒業の折、早々と進学先を決め、どーにもこーにもヒマだったので卒業記念誌の編集委員を請負い、誰に頼まれたわけではないが、勝手に大好きな「Lee」ジーンズの特集を書いた覚えがあるが、翌年16歳の頃にモノマガジンに傾倒し、分厚い200号記念号を買い求め、これが世界の傑作かと感心していたが、それを二十年本棚に暖めたまま、38歳になってみると、同じ様な特集を今度はブルータスが企画し、尊敬できる「日用品」、などのコピーで基本思想は同じまま、これが定番!これが実生活を充実させる品々だと解説してくれている。つまりは、日用品というか実用品の世界では、流行り廃りはそれほどない、ということであるが、同時にこのような企画がウケるのは、このような方向性を実生活の中で実現することが困難だからであり、逆説的でばかばかしいかぎりだが実用品が贅沢品となっているというのが、今の日本の常識らしい。
なんでそんなことになっているかというと、需要のために製造されるという本来の清き正しい産業構造ではなくて、産業というものが人間生活を補助する役割から分離し遊離していて、需要のための産業ではなく、販売のための産業となっているのが原因であり、それを翻訳すると、耕作に従事するべき人が玩具品の製作に没頭しており、製鉄に従事するべき人が非実用品の製造を行ない、生活必需品の製造のために必要な人がコンビニで店員をしているから、そんなこんなで実用品が逆立ちして贅沢品になるのである。
モノマガジン200号記念に乗っている定番商品には、舶来モノも多いが、いくら舶来モノが素敵だと思っていても、コルクではなくネジを切っている金属製の蓋をもつイタリア製ワインを一口おいしく頂戴した後、日本製と同じ様な感覚で冷蔵庫に横倒しで置いたがために、暗い冷蔵庫の中でジワジワと口からワインをこぼしてしまい、ワイン風味のトウモロコシを子供に食べさせて妻に大怒られしてしまった私が涙ながらに言うから、これは本当だが、製造業がボロボロの国の工業製品というのは、悲惨であり、昨今製造業の衰退が叫ばれる日本も例に漏れず、そのあとに続いているのであり、まともにモノが作れなくなったために、それゆえ実用品が贅沢品になってしまった、というのが種アカシであり、我々はいまそのただ中で生きているということである。
では、人々は実用品を買い求めずに、何にお金を使っているのかというと、先に書いた玩具品や非実用品をコンビニで買っているのであり、実用品ではなく不要品で棚を溢れさせ、浪費することが素晴らしいことだと軽薄な広告代理店に擦り込まれている国民が消費者という資本家のカモに仕立てられて蝶ネクタイをした上で嬉々として、店頭に行き、自分が欲しいわけではないが、実感はないけれど、人が言うにはそれはとてもいいらしいから買っているという、消費行動に走っているのであり、そういった無益な贅沢品の総大将となっているのが、価格に見合わない住宅なのは、この長い文章を読み進めた修行僧の様な読者には、合点がいくところだろう。
戦後の住宅産業による住宅の価格と品質が一致していないのは、自分の稼ぎが悪いからだと、自分を責めるオトーさんオカーさんが日本中に溢れているが、悪いのはあなたではなく、断じてあなたではなく、需要のための産業ではなく、販売のための産業となっているその仕組みが悪いのであり原因であるが、販売のための産業、とは、言ってみれば、流行を製造することであり、流行製造マシーンのサイクルに乗って、自転車を漕ぎ続けているのが、現代日本人の一般的消費生活なのだが、ここいらで、ちょっと、おやじさん、その自転車を降りてみませんか、と声を掛けているのが、ヤマグチ建築デザインであり、不惑前だけど、16歳の頃からずっと不惑じゃないかと噂のある私である。

先日のIWJで岩上による小沢インタビューの最後部で、「三年後は国民サイドの政権を取り戻しますよ、もちろんですよ」と小沢が喝破してみせたのと同じ意気込みで、自分らしい家、自分に相応しい家に住めますよ、あなたは!と私は言っているのであり、実用品の王様である住まいが贅沢品ではなく、手に届くものとして提供するのが、私の役割であり、正直言えば、初めにボタンさえ掛け違わなければ、超簡単な方法なのだが、失われた十年が、失われた二十年になりそうな日本においては、なかなか突き抜けるのが難しく、ここに我が事務所の存在意義があるのだと、深夜に小さく叫んでいるのである。

ついさっき、大学時代にお世話になった方が緊急入院したとの連絡が入ったが、敬愛する先輩が命を取り留め、現場に復帰できるよう祈りつつ、長ったらしい今日のエントリーを終わることとする。


(撮影;堂本裕樹・IMAGINE DESIGN OFFICE)