薬師寺,浦辺,楢村

来月の講演会は,倉敷の民家再生,というお題を頂いている。倉敷の建築を考えるとき,大原孫三郎(1880-1943)と建築家薬師寺主計(1884-1965),大原総一郎(1909-1968)と建築家浦辺鎮太郎(1909-1991)のこの二組のペアは外せないし,今月の新刊本『再生名住宅』(鹿島出版会)にも名を連ねる,わが師である楢村徹さん(1942-)のことも外せない。そう考えると,報告の仕方としては,前者二組の仕事を軸にしながら歴史を語り,現在進行形の活動として楢村さんの仕事を紹介しつつ,思想や理念,方法などを話そう。行政の立場としては,元助役の室山貴義さん(1929-)の仕事も忘れてはいけない。最後に自己紹介がてら自分の仕事も紹介しよう。もうできた,簡単だ。手元には, 上田恭嗣『アール・デコの建築家 薬師寺主計』山陽新聞社,2003や,浦辺太郎『浦辺鎮太郎作品集』新建築社,2003があるし,浦辺さん自身が書いたいくつかの原稿や,建築評論家の長谷川尭さんの浦辺さん評論の本も持っている。室山さんの仕事は昨年,金井利之さんが『倉敷の町並み保存と助役・室山貴義』としてまとめたものがある。7年間,倉敷の中心部で仕事をしていた僕としては,古い形式の民家のなかに埋め込まれた彼ら三人の建物こそが,町の魅力を高めていることはよくわかっている。倉敷の魅力は,ただ単に古い建物が多いというだけではない。それだったら,時間が止まった町であり,映画のセットのようで逆に気持ち悪い。魅力の理由は,時代時代において,質の高い建物が建てられ,それらが混在していることだ。薬師寺,浦辺,楢村のお三方の建物はその気になれば,一日で歩いてまわれる範囲にあるのだから,外観写真を撮りまくって,グーグルマップにプロットし,写真付きで公開する作業もしてみていいかもしれない。建築ファンのみならず,一般に向けても倉敷観光の新たな切り口として,受けるかもしれない。観光に行くというのは,結局は町並みを見ているんだし,建築を味わっているのだ。
浦辺鎮太郎(1909-1991)さんは,倉敷の旧市街地にかなり多くの建築作品を持つ。建築再生の先駆け的存在である「アイビースクエア」(1974)は,その代表作だ。彼は長い間,クラレの営繕部で技師として働き,戦時中は飛行機の設計,戦後は住宅難解消のために「クラケン式プレハブ住宅」,そして多くの工場建築や寄宿舎といった建物を設計した。つまり浦辺さんは華々しい建築家というよりは,技術者として長いキャリアを持ち,その後に建築家としてデビューした,いわば遅咲きの部類に入る。世界的建築家である丹下健三(1913-2005)の旧市役所(1960)が建てられた50年前の同時期に設計監理した,倉敷考古館の増築(1957)や大原美術館の別館(1961),倉敷国際ホテル(1963)などの作品が最初期のものだ。浦辺さんの残した言葉の中で気になるものがある。「一建築家が作家意識なんかで勝手なことをやるのは見ておれない」とか,「空理屈をこね回すヤツを見ると,虫酸が走る」などがそれだ。楢村さんも似たようなことを言っていたし,僕自身も古い民家などに接していると,深く頷けるようになった。どういうことかというと,古い民家というのは,長い間の年月を経て,誰の発案とも分からないまま,多くの知恵や判断が重なり合って,異常に高い精度で,質で,空間が作られているということだ。室町から昭和初期までの年月に対しては,高々一個人の建築キャリアでは歯が立たないのだ。特に畳敷きの座敷のような場所はべらぼうに凄い(だから僕がつくる家には畳は敷かないことにしている)。分かり易い例を出すと,こんな風だ。今流行の北欧家具を,現代の住宅と古い住宅に置いて,両者をくらべてみるのだ。すると,現代住宅ではパッと映えていた北欧家具が,古民家住宅ではなんだか弱々しく見えて,クスんでしまうだろう。古民家住宅には,18世紀イギリスのウインザーチェアくらいがフィットするかもしれない。古民家の再生をするときは,元々の古民家の質が高いため,あまり手を加えては逆に悪いものになってしまうと,よく感じる。特に,木製の格子などは自分でああだ,こうだと,考えるよりも,素直に過去の先輩たちの仕事に学んだ方がいいに決まっている。たまに,自分で考えました的な意匠の格子を目にすると,僕は浦辺さんの言葉を思い出すのだ。