クライアントに良い席を用意するという仕事

日頃は、自分本位で専門家にしか分からないようなことを書いているこのブログだけど、たまには、分かり易いこと書いてみる。

家を考える際に、何を大事にされていますか、とか、たまに聞かれるんだけど、居間ですね、一番長く過ごす居間が気持ちよくなるように考えています。と大体答えています。私は、何処かに連れて行ってくれる人でもなく、良いものを安く買ってくれる人でもなく、そうではなく、その人が過ごす際に、たとえば、写真は打ち合わせテーブルにクライアントが座った時に見える景色なんだけど、この写真のように「住まう人に良い席を用意する」という、そういう仕事だと自分では思っています。
余りそれ以上のものを求められても、つまりは、アレルギー体質が改善できる家がいい、夫婦円満になる家がいい、子育てが楽しくなる家がいい、などなど、そんなことを求められても、それは無理であって、安いコピーライターが書くような文句を鵜呑みにするのではなく、その部分はその方自身の人生の問題として引き受けてもらいたいし、また、自動車工場で造られたような均質・精密な家がいい、とかいわれても、トヨタホームでも苦労しているのに、なんならキャンピングカーで暮らせばどう?そういう身軽なのもいいですよね。実は私もそういうの好きなんです、という、逆提案をするような人物です。

ひとことで言えば、クライアントに良い席を用意する、という仕事ですが、敷地の状況と打ち合わせの中で得たクライアントの望む方向の、そのまた先にあるクライアント自身も未だ座ったことのないような、まだ見ぬ良い席を用意するという、そういう場を造っていく仕事だという、そんな感じでしょうか。「風景になる家」または「Classic-Line」というのをベースにしながら、今後も活動を続けていきます。みなさまどうぞよろしくお願いします。

帽子建築宣言!

今日朝、冬物のクリーニングを受取りにクリーニング屋さんに行ったら、当たり前のように浦辺さんの作品(参考1参考2)が隣にあったので、直立不動で、おはようございます!ありがとうございます。と挨拶をして礼をし、普段はクルマだけをクローズアップして枠に納める私であるが、ここは、先生を尊び、キチンと「浦辺流コンクリート外壁にはこういう格子をつけるのよ格子」を写真に納めて、きょうもがんばるぞ。と自分を鼓舞した次第である。

浦辺さんが両備児島をつくり、倉敷公民館をつくった頃、香川県庁舎を丹下先生がつくり、日本のみならず世界から喝采を浴び、ミースがクラウンホールをつくり、時代の最先端を走っていたのだが(参考3)、浦辺さんはそこからそっぽを向いていたのであり、そこに流れる思想は、私がよく言うところの「戦後の住宅生産構造・悪玉論」と相通じるところがあり、単なるあまのじゃくではなく、「どこでも誰でも誰とでも、デートするのよ」とか、「早いのよ安いのよ楽なのよ、さあ買いな買いなー、今すぐ買いなー」という感じの行き方に嫌気がさしていたのである。
それはちょうど産業革命時代のイギリス商人が新興ユダヤ商人を毛嫌いしたのと同様で、イギリス商人は、公衆の面前に品物を魅力的に陳列するのは同業他者の客を奪う卑劣で不純な行為であると考えていたし、とりわけひとつの店舗で複数の商品を扱うことは、商業道徳に反し商業習慣を冒涜・蹂躙するものとして排斥されていたのだが、一方そんなすぐ脇でユダヤ商人は、ある品物が売れなければ、直ちに別の品物を客に売りつけるという手法を先鋭化して婉然たるお勧め工場としての「百貨店」を誕生させたのであるが、イギリス人に嫌われるのを屁とも思わない彼らはそのまま突き進み、イギリス紳士は置いてけぼりを食らったというのが、産業革命時代に起こったことであった。
建築界で言えば、鉄とガラスとコンクリートという近代化産業の産物が供給可能な地域であれば、全世界共通の建築、というものがあるハズであり、全世界どこでもドア、ではなくって、全世界どこでも通じる建築、として世界各地にドアからではなく天空から舞い降りたのが、インターナショナルスタイルの考え方・思想であったが、そうではなく上からではなく、下から生まれ出た建物で行こうじゃないか、というのが、浦辺さんであり、その師匠格である村野藤吾先生であり、その孫弟子である楢村徹先生であり、革新的異端児の藤森照信先生である。

「日本の近代化は戦後に行なわれた」と言ったのは、高校生の頃に読んだ橋本治さんだったようなうる覚えでいるのだが、イギリスの産業革命時代と浦辺さんの両備児島をここで並べて考えるのは、そういうわけなのだが、おそらくそれで合っているが、同時に日本の現代教会建築を考える際に、私が10年以上前に書いたように、産業革命時代のゴシックリバイバルを復習する必要があるというのは、当っているわけで、この頃に私たちの今日の生活の規範が大きく変わったのであり、今は当たり前におもっていることが、この頃大きく音を立てて変わったのであり、同じ理由で、「それ以前の日本」を探すために宮本常一先生の著作の森の奥深くに入って行くべきであり、坂本長利さんのひとり芝居も見るべきである。
日本設計界の社会的地位が低い直接的原因は、丹下健三以下のメインストリームが社会的活動をほとんどしてこなかったためなのだが、後輩の後輩である伊東豊雄先生たちも苦戦していて、いまごろになって「社会性が、ごにょごにょ」と言い出しているのは、日本設計界のメインストリームが、戦後以降もインターナショナルスタイル賛美で突っ走り、産業革命路線の延長を引き継いだのが元凶なのだから、これは仕方がなく自業自得である。
そして、そこからズラして遡って、いや、ズラすとか遡るではなく、「戦後の住宅産業構造」という悪者が、そもそも存在しなかったのだ、という前提を仮想し、そこから室町以来の日本建築の延長を考えるべきである、という結論に至ったのが岡山の古民家再生工房なわけで、このような説明を口でする前に、いまの私と同じ年齢だった当時の矢吹さんと楢村さんはそれを理解し解釈し、アウトプットして作品としてつくってみせたのであり、これがバブル期に始まった古民家再生工房が行なったことだった。

というわけで、次回の作品は、浦辺先生に倣い、帽子を深く被った感じの建物で、カッコイイ派代表のガラスでスキトオル系とか、カジュアル自然派代表のナチュラル系とか、そんなメインストリームとは縁のないような、一見お寺のようで毛深く、そっぽを向いているようなそんな感じの建物になる予定である。これもそれも、今日の朝の浦辺さんの両備児島のお陰であり、楢村先生のお陰であり、村野先生、橋本先生、宮本先生のお陰である。みなさまどうもありがとう。

作品解説:陽気な家

今までの延長戦ではなく、別の系統の家を欲するのも、人の性というもので、いままでの日本の民家をベースにしたものから、少しズラした形で別の表現を試みたのが、今回の陽気な家である。

すぐお向かいの方から「洋風な家がいい」との依頼で、この住宅は世に出現した。「洋風」とは何なのか、改めて考えたが、私のように建築史を勉強した者だと、「洋風」と言っても、イタリアか、ドイツか、フランスか、チョコか、イギリスか、北欧か、一体どの洋風なのか、という話しに進みがちだが、そこはぐっと留まって、かつての日本人がはじめて「洋風」なるものに、接した時に試みた方法、すなわち、のちの建築史研究者に「擬洋風建築」と名づけられる種類の建築に学ぶことにした。つまり、日本の木造住宅の技術を使って「洋風にみせる」ことを主眼に明治の大工が取り組んだことをそのまま援用することで、現代の日本においての「非伝統住宅」の一つの形を示そうと試みた。
ここは日本である。私が勉強してレンガ造の図面をきっちりと書くことは容易だが、つくるのは日本人で、材料もこの地域の材料となる。そうなると、おのずと、出来ることは限られているわけで、明治の大工が直面した状況に私も同じように直面し、ここに、「擬洋風」なる過去の遺産を発見して、敬意を表しながら、そのワザを拝借したというわけである。

特徴的な破風の扱いと賑やかな庇を擬洋風建築とドイツの民家を参考にして形を整えたあと、色彩の面では、瀬戸内の潮の香りと陽光溢れる児島の土地にちなんで、写真のようなものとし、地域にある歴史的住宅とは相容れないが、日本における非伝統住宅のあり方を試みとして取り組み、いままで室内ばかりで行なってきたHappy-Line的行き方を、外観にまで押し広げ、「陽気な家」として、完成させた。
またこの家は、二年前に発生した隣家からの大火事により全焼した住宅の建替え工事として、建てられたものでもあるが、周囲7軒の全半焼を引き起こした酷い火災からの復興のしるしとしての意味もあり、私自身も体験した二年前から今までのさまざまな出来事も思い返しつつ、感慨ひとしおという気持ちで涙して、完成の日を迎えたものである。出来て良かった。

再考・土間の生活

前回のブログを書いた次の日には、なんとか賞という賞を受けたことで、一般の人は誰も知らない伊東豊雄先生が、少しは知られる建築家になったのだが、その彼が、「ヤマグチくん、建築と言うのは、建物で勝負であって説明の言葉なんか要らないんだよ、それに、閉鎖的な家で育った姪っ子たちが、あの家を出て行ったように、わたしも<建築は作品性が第一です>というケージから、でることにしたよ」というのも、頷けるのであり、そのように説明をしてくれる伊東先生の方が潔く、むしろ好きになれるタイプである。
伊東先生も土間を推奨しているように、日本人は靴を脱ぐのです、だから、家に入ると直ぐに靴は脱ぐべきなんです。というタイプの家は、これからは、少なくなっていくような気がする。土間については、このブログ内で幾つも書いたが、もう一度繰り返すと、井戸水とカマドの火の利用という土間生活を成り立たせていた必然性が、現代では不要となったのであり、栓を開ければ水が出て、ボタンを押せば火がつくという生活になっているのが、現代日本住宅であり、それにくわえて、床を高く上げるのは、湿気から逃げているのであるが、地面にコンクリートを打てば、その湿気を断ち切れるので、コンクリートの上にモルタルを塗り、「モルタル土間」でござんす、ということで、寝室やお風呂といったプライベート性の高い空間は別にして、家の中でのパブリックと呼べる居間や食堂、台所といった部屋は、玄関も含めて土間にしてしまえばいいのである。
土間が無くなったのは、労働者9割がサラリーマンになったこととも関係しているが、つまりは、自宅での作業というものが、一切不要になったからであり、農家・商店を始め自営業のひとにとってみれば、本来は土間の方が都合が良いのだが、それが、みんな外で働くようになり、ついでに子供も皆学校へ行ってしまい、言ってみれば、外で稼ぐことになった日本人は自らが進んで住宅内パブリックを消し去ってしまったのであり、住宅内パブリックが無くなると、みんなプライベートということになり、我欲むき出しのプラベート同士がぶつかり合うような家に住む家族のあいだでは、親しき仲に礼義有り、地震雷火事親父、という麗しい日本文化を受け継ぐことが出来なくなり、ここにいたり、「住宅発家族崩壊物語」という仮説が設定されるのである。こういうことは、20年前くらいに山本理顕上野千鶴子に教えてやるべきだったが、いかんせん、20年前に建築を勉強し始めたので、地方都市の売れない建築家である私としては、力及ばずである。

ということで、30歳から31歳に考え設計して、5年前に出来た私の家の写真が、ゆったりまったりのお付き合いをしている写真家から送られてきたので、ここにアップしておくが、上記のような能書きは忘れ去った上で、土間の住宅というのはこんなもんなんだな、というのがこの写真で伝われば、とりあえず、二ヶ月ぶりのブログ記事アップの目的は果たせたというものである。
日本人は最後に大事なことをぽろりというので、辛抱強い読者は得をしたが、古民家再生工房の流れを汲む私たちが、一体全体何をしてるかというと、「戦後の住宅生産構造」を敵と看做し、戦後の数十年の悪巧みが仮に存在せず、室町以来の住宅文化が現代にまでストレートに続いていたとしたら、一体どんな住宅になるのであろうか、というような仮想の状態を頭に置きながら、設計しているのであり、昔の家が派手だったように、安価な住宅であっても、重みや深み、また艶かしさや色艶というものを実現できないだろうか、ということを日々考えているのであり、先日の安倍プーチン横並びの記者会見で、日本人記者の質問にプーチンがぴしゃりと答えたのと同じくらいの意気込みで、隙あらばなんとかハウスやなんとかホームにしか、目が行かなかった日本人をこちらに引き寄せられないかと、画策しているのである。

伊東豊雄先生にダメ出ししてみる

最近、伊東豊雄先生が、「社会性」について言及を始めた。『あの日からの建築』なんて本も書いたようだし、「みんなの家」とかいうプロジェクトもあるらしい。その本も読んでないし、「みんなの家」が出来たのか、できていないのか、どんなものなのか、すら知らないが、そういう認識の元で、ダメ出しをしたい。
今は亡き、「中野本町の家」で衝撃を与えた伊東先生だったけど、専門家ではない世間のあいだでは全く知られていないが、建築界では「ピン芸人」いや失礼、一級の建築家、巨匠、として名を馳せている。伊東先生というのは、そんな方だ。
で、その巨匠の伊東先生がいうには、「建築家は社会性のことも考えなくてはいけない」と仰られているらしいのです。建築界では、作品である建物を如何に素晴らしい「理論」に基づいて、素晴らしい「実物」を作るか、ということがもて栄やされてるんだけど、ピンのピンである巨匠伊東先生ともあろう方が、「作品で勝負だぞー」というのではなく「作品も大事なんだけれど、それを使う人のことも考えないとね」なんて言い出したのだ。
「そんなの当たり前じゃん?!」という、そこのあなた。そうです!当たり前です。でもね、それがね。建築設計の専門家の間では、お恥ずかしながら、違うんです。なんというか、それは美術家が作品を作るのに似ていて、それの巨大版であって、如何に最先端の思想に基づいて作品を造っていったのか、というのが評価軸であって、そこに突き進んでいく人たちこそ、「建築家」であり、建築メディア的にいうと、「現代建築」であり、それ以外は、建築家にあらず、と言った秩序体系のもとで、言論も行き交っている、そんな世界なんです。
二流三流建築家である私たちが、「風景になる建築がだいじです」とか言うならまだしも、せめて、伊東先生くらいの巨匠の方々は、「建築は”作品性”だけで勝負なんです」「建築は世界標準化されるべきで、ぶっ飛んだ作品が私の持ち味です」と言い続けるべきだと思うんです。知らない人は、「中野本町の家」をググって欲しいが、あんな閉鎖的で社会からそっぽを向いた家を造っていた人が、その同じ人が、「これからは、社会性もいるんだよ、チミー」とか言われても、「お前が言うな」とダメ出しを出したくなるわけです。
覚えている人も多いと思うが、コーリン・ロウの『マニエリスムと近代建築』の翻訳者はこの伊東先生だった。そこでかいていることを一文でまとめると「実学より基礎研究が大事です」「実物より理論が大事です」ということなんだけど、伊東先生が作っている今までの作品を見ると、「理論より実物が大事です。これが本音なのよねー」と言っている気がする。説明が下手なのではなく、あえて説明せずに、煙に巻いて、どうだ、ユラユラ感があるだろう、どうだ境界がない感じがするだろう、どうだ、どうだ。と言ってるかんじがする。伊東先生は翻訳しながら、コーリン・ロウの逆を行く道に目覚めたのではないだろうか。
デビュー作である「中野本町の家」は、「家は社会には開くべきではなく、社会性なんぞ、クソクラエです」といった感じの家だったが、同時に「理論より実物なんだよねー」と言った言外の気持ちがにじみ出ている気がする。友人である藤森さんは、以前書き尽くしたように「理論より実物なんだよねー」の巨匠であるが、このあたりの人たちは、先輩世代が戦後の復興期において、社会に対して建築が十分に役目を果たせなかった挫折感を引きずっていて、理論武装ままならないなか、いや、「建築は作品性こそ大事なのよねー」というのが、「建築」であって、それ以外は建築ではない、という掟に従う手前があるので、「建築は作品性を大事にしないといけないんだけどれども、それをあえて説明しない、という行き方もあるのよね、説明せずに、<どうぞ実物でご判断ください作戦>を続けていれば、結果として、社会に開いた建築、社会のための建築、になっていったときも、<どうぞ実物でご判断ください>と言い続ければ良いのよね」というのが、じつは彼らの建築人生ではないだろうか。
「みんなの家」についてだけど、復興の必要な東北に置いて今必要なのは、東京からエライ先生が出て行って、何かする段階ではなく、政治と行政がまずは仕組みを先に作って率先して、環境づくりをする段階だろうと思うし、エラい先生が出て行くと、ともすると、鬱陶しがられるおそれがあるし、ひどい場合は、お前ら出て行け、といわれないだろうか。そんな心配も浮かぶ。また、「家の50%を土間にするのもアリだよね」とか「家には庇が必要だ」なんてこともいってるらしいけど、伊東先生は私たち民家から学んで造っていく者たちの真似をするのではなく、建築は作品性が大事だし、過去の建築とは断絶されていて、どこにもない建築を作るのが、我が使命なんです、と言い続けて欲しいものです。
ということで、お前がいうな、というダメ出しが可能なんだけれども、伊東先生レベルのかたは、よりもっとすんばらしいことを企んでいるかもしれないので、軽率にいうべきことじゃないというのは十分分かっているんだけれど、たまにはこういう大先生の懐を借りて、批評の練習をさせて頂くことも、また必要かな、と思うわけです。

ヤマグチ建築デザインへの行き方

地図はありませんか?という問い合わせがありましたので、改めて載せます。
こちらです。
このルートではない近道もありますが、初めての人が行き易い道を表示しています。


より大きな地図で ヤマグチ建築デザイン を表示


最後に曲がる箇所(カーブミラーがあります)は、開けた駐車場のようになっていて、曲がった先の道路舗装はコンクリートになっています。ここを右折します。

アスファルトではないため、これが「道」なのか、判別できない方もおられるようですが、ここで正解です。
(写真は、北から南を向いて撮影しています)


以上、アクセス情報でした。


追記)
右側にも「アクセスマップ」として、載せました。

建築史至上主義

古いクルマに乗っていると税金が高くなるらしいというのは知っていたが、どうやら政府は旧車ファンを二段階で追い込むつもりらしい。つまりは、13年以上の車と18年以上の車の二段階方式で、大人の階段のーぼるーー、きみはもうオンボロなのうさあーー、じゃあるまいし、18歳になったら、もっとたくさん税金払ってね、それが大人の世界なのよ、タバコもお酒もまだダメだけど、18年経って結婚も出来るんだから、もっとお金よこしなさいよ、人生甘くはないのよ。ということらしい。
私の感覚はそんなに間違ってはいないと思うのだが、一つの車が世に存在してる間中、政府はその車を根拠にお金を巻き上げる仕組みなのだから、長年お努めを果たして来た車に対しては、あんたもご苦労さん、もうそろそろ、足腰くたびれてきただろうから、ここいらで、楽をさせてあげるよ、13年経ったら、1割引で、18年経ったら二割引ね。というのが、世の中の道理というものではないだろうか。
まあ、10歩譲ってその割高になった税金分が新しい車の割引につかわれ、延いては、自動車メーカーが潤い、回り回って将来的にユーザーにまでいいことがやってくるのなら、まあいい。しかし、メーカーの「内部留保」が現金ならばまだしも、そうではなく、借金二京円の国の金融商品になっていたりするもんだから、安倍首相が50兆のアメリカ国債を買うのと同じで、額面通りのお金が日本にあるわけではなく、子供がうれしがってゆっくり綿飴をたべているといつの間にかしぼんでいて大泣きするように、最初は大きく見えるがいつのまにかその金融商品は萎んでいて、ああ残念でした、これは金融力学の世界のことだから仕方ないのよね。お父さんもお母さんも悪くないのよ。あのね、世の中はそんなものなの、なんて言われるのが目に見えているので、18年以上の車にお世話になる身としては、なんとも、勘弁して欲しいものである。
さて、現代建築を志す学生なんかは、胆に銘じて欲しいが、一個人が一生懸命考えたものよりも、無限に近いひとのチェックを通って残って来たものの方が、より現実的な回答だというのが、学生時代から勤め人時代に至るまで、私が教わったことだった。学生時代では、よこで、コンペ、コンペといい、実際にあり得ないカタチの建物をせっせと書いていたものがいたが、それはそれで、手を動かす訓練として意味はあるのだが、どうやって建物が造られるのかも知らずに絵は書けまいと思うのだが、習字でいえば、紙の置き方、墨の作り方、筆の選び方、筆の運び方、強弱の付け方などなどのイロハについて、教えてもらわなければ、文字というのが書けないのと同じで、よくいうように絵に描いた餅ばかりでお腹を満たそうとしても土台無理な話なのである。
世界的にも特殊な状況である東京から発信される建築系メディアの作り方に問題があるのだが、一部のトップランナーは別として、現代建築だけが建築であるかのような虚像を雑誌メディアが造りだしてしまうことに第一に誤りがあり、第二に受け取る側に問題があり、自分はピンだと自負のあるものはいいが、その他大勢のものは、ピン以外、なのであり、つまりは、二流三流陣なのであるから、二流らしく世の中で生きながらえ、貢献していく技術の方が重要であり、多くの大衆が必要とする堅実な飴玉を作るべきで、虚像の綿飴はいつか萎んでしまうのである。
そう考えると、向上心を持って上を向いて歩くのは変わりはないが、室町以降から続いて戦争でプッツリ途切れてしまった日本の民家の系譜を紐解いて、真っ当な民家のしくみの抽出を始めてもいいし、今回私が取り組んだように、明治前期に盛んだった「擬洋風建築」から現代木造住宅へのヒントを得て、それを新築住宅に生かすのもまた美味である。

明治の大工たちは、よくいわれるように、いや村松さんや藤森さんたちが命名したように、見よう見まねで「洋風な」建物をこさえていったのであり、なんともいいがたいが、そこにうねるパワーというのは、並大抵のものではなく、自分が親方から教わった日本建築の作り方のセオリーからはかなり外れた、いや、意図して外した西欧建築の偽物を、偽物と自覚しつつ造っていったのであり、「洋風」ではなく「擬洋風」という命名はそこに味噌があるのであり、木造で如何に洋風に見せるのか、をテーマにした擬洋風建築から教わることはこれからも多いのだと、今回よく分かった次第である。
これらは、建築史の諸文献を読んだあと、ケネスフランプトンの本を読み、現代建築に真っ向勝負する人たちを尊敬しつつ横目に見て、でも私はこれをやると、建築史研究を援用して現代住宅に適用する方法であり、現場再現型もしくは、動態保存型の建築史研究とも言うべきで、江戸からポストモダンまでのスパンのものを対象に、現場において建築史研究を実践しているのであり、設計者の主観であることには代わりはないが、過去からの良質の贈り物を現代住宅に届けるもので、バランスさえ崩さなければ、自然なカタチでの定着が臨めるのである。それは現代建築のように一個人が考えるよりも、より広い範囲での了解が得られ、その積み重ねにより、一つのスタイルの形成へと至るのである。かつて古民家再生工房の先輩たちが一つのスタイルを確立したのは、そういう方法であり、今回「真っ当な民家」ではなく、「擬洋風建築」を援用した私も同じであり、古民家(再生工房)の先輩は否定するだろうが、私にいわせるといずれも建築史至上主義である。