伊東豊雄先生にダメ出ししてみる

最近、伊東豊雄先生が、「社会性」について言及を始めた。『あの日からの建築』なんて本も書いたようだし、「みんなの家」とかいうプロジェクトもあるらしい。その本も読んでないし、「みんなの家」が出来たのか、できていないのか、どんなものなのか、すら知らないが、そういう認識の元で、ダメ出しをしたい。
今は亡き、「中野本町の家」で衝撃を与えた伊東先生だったけど、専門家ではない世間のあいだでは全く知られていないが、建築界では「ピン芸人」いや失礼、一級の建築家、巨匠、として名を馳せている。伊東先生というのは、そんな方だ。
で、その巨匠の伊東先生がいうには、「建築家は社会性のことも考えなくてはいけない」と仰られているらしいのです。建築界では、作品である建物を如何に素晴らしい「理論」に基づいて、素晴らしい「実物」を作るか、ということがもて栄やされてるんだけど、ピンのピンである巨匠伊東先生ともあろう方が、「作品で勝負だぞー」というのではなく「作品も大事なんだけれど、それを使う人のことも考えないとね」なんて言い出したのだ。
「そんなの当たり前じゃん?!」という、そこのあなた。そうです!当たり前です。でもね、それがね。建築設計の専門家の間では、お恥ずかしながら、違うんです。なんというか、それは美術家が作品を作るのに似ていて、それの巨大版であって、如何に最先端の思想に基づいて作品を造っていったのか、というのが評価軸であって、そこに突き進んでいく人たちこそ、「建築家」であり、建築メディア的にいうと、「現代建築」であり、それ以外は、建築家にあらず、と言った秩序体系のもとで、言論も行き交っている、そんな世界なんです。
二流三流建築家である私たちが、「風景になる建築がだいじです」とか言うならまだしも、せめて、伊東先生くらいの巨匠の方々は、「建築は”作品性”だけで勝負なんです」「建築は世界標準化されるべきで、ぶっ飛んだ作品が私の持ち味です」と言い続けるべきだと思うんです。知らない人は、「中野本町の家」をググって欲しいが、あんな閉鎖的で社会からそっぽを向いた家を造っていた人が、その同じ人が、「これからは、社会性もいるんだよ、チミー」とか言われても、「お前が言うな」とダメ出しを出したくなるわけです。
覚えている人も多いと思うが、コーリン・ロウの『マニエリスムと近代建築』の翻訳者はこの伊東先生だった。そこでかいていることを一文でまとめると「実学より基礎研究が大事です」「実物より理論が大事です」ということなんだけど、伊東先生が作っている今までの作品を見ると、「理論より実物が大事です。これが本音なのよねー」と言っている気がする。説明が下手なのではなく、あえて説明せずに、煙に巻いて、どうだ、ユラユラ感があるだろう、どうだ境界がない感じがするだろう、どうだ、どうだ。と言ってるかんじがする。伊東先生は翻訳しながら、コーリン・ロウの逆を行く道に目覚めたのではないだろうか。
デビュー作である「中野本町の家」は、「家は社会には開くべきではなく、社会性なんぞ、クソクラエです」といった感じの家だったが、同時に「理論より実物なんだよねー」と言った言外の気持ちがにじみ出ている気がする。友人である藤森さんは、以前書き尽くしたように「理論より実物なんだよねー」の巨匠であるが、このあたりの人たちは、先輩世代が戦後の復興期において、社会に対して建築が十分に役目を果たせなかった挫折感を引きずっていて、理論武装ままならないなか、いや、「建築は作品性こそ大事なのよねー」というのが、「建築」であって、それ以外は建築ではない、という掟に従う手前があるので、「建築は作品性を大事にしないといけないんだけどれども、それをあえて説明しない、という行き方もあるのよね、説明せずに、<どうぞ実物でご判断ください作戦>を続けていれば、結果として、社会に開いた建築、社会のための建築、になっていったときも、<どうぞ実物でご判断ください>と言い続ければ良いのよね」というのが、じつは彼らの建築人生ではないだろうか。
「みんなの家」についてだけど、復興の必要な東北に置いて今必要なのは、東京からエライ先生が出て行って、何かする段階ではなく、政治と行政がまずは仕組みを先に作って率先して、環境づくりをする段階だろうと思うし、エラい先生が出て行くと、ともすると、鬱陶しがられるおそれがあるし、ひどい場合は、お前ら出て行け、といわれないだろうか。そんな心配も浮かぶ。また、「家の50%を土間にするのもアリだよね」とか「家には庇が必要だ」なんてこともいってるらしいけど、伊東先生は私たち民家から学んで造っていく者たちの真似をするのではなく、建築は作品性が大事だし、過去の建築とは断絶されていて、どこにもない建築を作るのが、我が使命なんです、と言い続けて欲しいものです。
ということで、お前がいうな、というダメ出しが可能なんだけれども、伊東先生レベルのかたは、よりもっとすんばらしいことを企んでいるかもしれないので、軽率にいうべきことじゃないというのは十分分かっているんだけれど、たまにはこういう大先生の懐を借りて、批評の練習をさせて頂くことも、また必要かな、と思うわけです。