帽子建築宣言!

今日朝、冬物のクリーニングを受取りにクリーニング屋さんに行ったら、当たり前のように浦辺さんの作品(参考1参考2)が隣にあったので、直立不動で、おはようございます!ありがとうございます。と挨拶をして礼をし、普段はクルマだけをクローズアップして枠に納める私であるが、ここは、先生を尊び、キチンと「浦辺流コンクリート外壁にはこういう格子をつけるのよ格子」を写真に納めて、きょうもがんばるぞ。と自分を鼓舞した次第である。

浦辺さんが両備児島をつくり、倉敷公民館をつくった頃、香川県庁舎を丹下先生がつくり、日本のみならず世界から喝采を浴び、ミースがクラウンホールをつくり、時代の最先端を走っていたのだが(参考3)、浦辺さんはそこからそっぽを向いていたのであり、そこに流れる思想は、私がよく言うところの「戦後の住宅生産構造・悪玉論」と相通じるところがあり、単なるあまのじゃくではなく、「どこでも誰でも誰とでも、デートするのよ」とか、「早いのよ安いのよ楽なのよ、さあ買いな買いなー、今すぐ買いなー」という感じの行き方に嫌気がさしていたのである。
それはちょうど産業革命時代のイギリス商人が新興ユダヤ商人を毛嫌いしたのと同様で、イギリス商人は、公衆の面前に品物を魅力的に陳列するのは同業他者の客を奪う卑劣で不純な行為であると考えていたし、とりわけひとつの店舗で複数の商品を扱うことは、商業道徳に反し商業習慣を冒涜・蹂躙するものとして排斥されていたのだが、一方そんなすぐ脇でユダヤ商人は、ある品物が売れなければ、直ちに別の品物を客に売りつけるという手法を先鋭化して婉然たるお勧め工場としての「百貨店」を誕生させたのであるが、イギリス人に嫌われるのを屁とも思わない彼らはそのまま突き進み、イギリス紳士は置いてけぼりを食らったというのが、産業革命時代に起こったことであった。
建築界で言えば、鉄とガラスとコンクリートという近代化産業の産物が供給可能な地域であれば、全世界共通の建築、というものがあるハズであり、全世界どこでもドア、ではなくって、全世界どこでも通じる建築、として世界各地にドアからではなく天空から舞い降りたのが、インターナショナルスタイルの考え方・思想であったが、そうではなく上からではなく、下から生まれ出た建物で行こうじゃないか、というのが、浦辺さんであり、その師匠格である村野藤吾先生であり、その孫弟子である楢村徹先生であり、革新的異端児の藤森照信先生である。

「日本の近代化は戦後に行なわれた」と言ったのは、高校生の頃に読んだ橋本治さんだったようなうる覚えでいるのだが、イギリスの産業革命時代と浦辺さんの両備児島をここで並べて考えるのは、そういうわけなのだが、おそらくそれで合っているが、同時に日本の現代教会建築を考える際に、私が10年以上前に書いたように、産業革命時代のゴシックリバイバルを復習する必要があるというのは、当っているわけで、この頃に私たちの今日の生活の規範が大きく変わったのであり、今は当たり前におもっていることが、この頃大きく音を立てて変わったのであり、同じ理由で、「それ以前の日本」を探すために宮本常一先生の著作の森の奥深くに入って行くべきであり、坂本長利さんのひとり芝居も見るべきである。
日本設計界の社会的地位が低い直接的原因は、丹下健三以下のメインストリームが社会的活動をほとんどしてこなかったためなのだが、後輩の後輩である伊東豊雄先生たちも苦戦していて、いまごろになって「社会性が、ごにょごにょ」と言い出しているのは、日本設計界のメインストリームが、戦後以降もインターナショナルスタイル賛美で突っ走り、産業革命路線の延長を引き継いだのが元凶なのだから、これは仕方がなく自業自得である。
そして、そこからズラして遡って、いや、ズラすとか遡るではなく、「戦後の住宅産業構造」という悪者が、そもそも存在しなかったのだ、という前提を仮想し、そこから室町以来の日本建築の延長を考えるべきである、という結論に至ったのが岡山の古民家再生工房なわけで、このような説明を口でする前に、いまの私と同じ年齢だった当時の矢吹さんと楢村さんはそれを理解し解釈し、アウトプットして作品としてつくってみせたのであり、これがバブル期に始まった古民家再生工房が行なったことだった。

というわけで、次回の作品は、浦辺先生に倣い、帽子を深く被った感じの建物で、カッコイイ派代表のガラスでスキトオル系とか、カジュアル自然派代表のナチュラル系とか、そんなメインストリームとは縁のないような、一見お寺のようで毛深く、そっぽを向いているようなそんな感じの建物になる予定である。これもそれも、今日の朝の浦辺さんの両備児島のお陰であり、楢村先生のお陰であり、村野先生、橋本先生、宮本先生のお陰である。みなさまどうもありがとう。