大震災に思う

尋常ではない今回の大震災。ただただ言葉を失うばかりで、被災地の方々が一日も早く通常の生活に戻られますようお祈りするばかりです。私たちが見聞きしたことのないような規模の災害が起こりました。100年に一度200年に一度の確率で、起こるであろう災害を目標に、日本全国の土木構造物は作られています。それが、今回は1000年に一度だといいます。宮城県で被災した大学の友人の無事が確認されたときは涙を流して喜びました。彼は建築構造の専門家ですが、専門家として今回の災害を背負って、また新しい歩みを始めることと思います。今月下旬には、また別の大学時代の友人の結婚式がありますが、この結婚式は構造専門家が多く集まるので、今回の話題で持ちきりになると思います。土木も建築も今回の災害には、太刀打ちできず、ただただその現象に翻弄されるばかりです。人の営みとは小さく、如何に日頃の生活が守られ整えられた上で動いているのかを実感しました。

震災後、テレビやツイッターからの情報を浴び続けると、気持ちが不安定になりました。これは誰かが仕組んだのではないか、そうであれば、日本人を不安におとしめるコトは成功しているな、と思いました。ネット上では、地震自体が(偏ったユダヤ教を信奉する)巨大財閥の陰謀だとの噂が流れたりと、まさに混沌とした世情となっています。原発の爆発は、(福島第一原発三号基の場合、爆発が三回も起こったということなどから)「爆発した」ではなくて「爆破された」ものであって、地震を引き起こした核兵器放射能をカモフラージュするためのものだとかです。アメリカの911も同じ勢力による謀略で、あのビルは飛行機によって壊れたのではなく、水爆によって破壊されたのだと。これはリビアでの英国軍らによる攻撃ともリンクしていいて、世界を不安定化して、戦争によって利益を生む産業の為に、意図的に起こされているものだ、と言うことらしいです。

私は設計者である以前に、キリスト者でもありますので、そのあたりの、一部の偏ったユダヤ教の考え方は、実は良く理解できるんです。共感は出来ませんが理解は出来ます。彼らは、選ばれた民である自分たち以外の人間は家畜にも劣ると、そのような人の命を奪ったとしても、まったく問題ないと、思っています。信じがたいことですが、そういう人間がいることは確かです。旧約聖書には、ユダヤ人が平気で人を殺していく記事が多数ありますが、当時の倫理観道徳観と現代のそれとでは大きく異なっているはずです。新約聖書の時代では、イエスはそのような偏った教えに染まったユダヤ人を叱責し、後に指導者となったパウロはそのようなユダヤ人にとっても、イエスが救い主であることを訴え続けたのですが、2000年ほど経った現在においても、彼らは一向にその方向を止めようとはしません。聖書にはそのような人びとが、イエスが救い主であると分かり、目が覚める時が来ると書かれていますが、それがいつになるのか、今回の惨状を見る限り、未だそのときは遠いのかなと感じてしまいます。

写真は、児島の古い被服会社の建物です。いわゆる「のこぎり屋根の工場」ですが、道に面する部分に、下屋根を付けていて、ヒューマンスケールなサイズにうまく納まっています。工場ですから、本来はそんなことに配慮する必要はなくて即物的に機能だけ満たされればいいものを、先人達は、受け継いだ知恵を使って、上手に設計しました。道のすぐ際にまで、背の高いのこぎり屋根の建物が来るのと、少し引いたところでのこぎり屋根が終わって、そこから人間の背丈に近い高さまで屋根が下りていくのとでは、ずいぶん違います。奥に見えるのは幼稚園ですが、人を育む為の建物が外部に対しては、配慮に欠けた建物になっています。工場ですら出来るのに、幼稚園は出来ないのです。これは設計者の配慮の無さがさせるものです。いわゆる大都会ではこんな配慮も出来ないほど土地が狭くて、壁ばかりが目立つ町並みになりますが、地方都市ではまだまだ「屋根の建物」を作っていくだけの余力はあるはずです。かつて浦辺さんが、クラレの工場建築で数々の素敵な環境を作っていたのを思い出しました。浦辺さんはもとより、名も無き先人たちですら、それに気付いて実践したのですから、私たちが出来ないはずはありません。

さいわい、また多くの仕事に恵まれて、日々打ち込んでいます。ありがたいことです。私としては、依頼された方自身の生活が豊かになるよう、お金によるものではない豊かさを出来るだけ増すことが出来るよう、努力していますが、同時に、社会に対しても、益となるよう、個々の建物は小さいですが、それでもこの世で輝いていけるように、願って設計しています。


追記)長年欲しかった『浦辺鎮太郎作品集』を手に入れました。はしまやさんに何度か借りて読んでいましたが、これで自分のものに出来ました。