住宅論断章

住宅なんかいらない

家を売ってもローンが残るなんて,なんかおかしいでしょ。少し年上のその人はずっと借家住まいを通すつもりだと言う。世間ではこういう人に対して,自分のものにならないのによく借家に住み続けるものだ,というよくある理屈で攻撃しそうなところを,この人はきちんと打ち返した。センター前ヒットだ。その後,ついでに盗塁した感じ。日本の住宅政策のイタいところをついた言葉だし,消費者のことを考えていない住宅産業の陰の姿を暴いた言葉だ。確かに,綺麗に区画された新興住宅地に,法律ぎりぎりで精一杯広く建てた住宅を見ると,そこまでして家を建てる意味があるのかと思う。出窓なんかついていると,そのガンバリ具合に涙が出る。おまけにそれが戦後興隆してきた住宅メーカーやその亜流が造った住宅だとなおさらだ。また,別の意味で住まいを不要とする人種がいる。牧師たちだ。幸い同世代に多くの若い牧師がいるので彼らの生活はよく知っている。キリスト教会の牧師というのは礼拝を行う教会の脇か,同一建物に住んでいて,赴任地が替わるれば住まいも替わるという生活をしている。固定した住まいを持たないのである。彼らは住まいの力を借りなくても,家族をしていく貴重な人種で,子どもたちは元気に育っている。

水田集落

この間,60年前の自分の住まい周辺の航空写真を見つけた。米軍が撮ったものだ。お金を払って高解像度のものを買ってみた。そこには至る所に水田があった。その水田は宅地に替わっているが,水田が宅地に替わった集落というのは,先に書いた気持ち悪さが幾分薄らいでいる。良いのである。それがどこから来るのかと思いめぐらせば,これは「お散歩サーベイ」で得た成果だが,溜め池からの農業用水をゆっくりゆっくりと,万遍なくすべての田んぼに分配するように整備された用水路にあるのだ。その用水路で囲まれた敷地は,等高線に逆らうこと無く並び,昔は畦だった今の道路も自然に山へ登っている。

子供部屋なんかいらない

子どもが小学校にあがる前に家が欲しい,とある人が言っていた。言っていただけでなく,こちらに同意を求めるように,いや,世の中すべての人の願望ですよね,と言わんばかりに主張してた。それを聞きながら,家をつくることは,子どもに対する親サイドの言い訳かもしれない,と思った。お父さんお母さんはがんばって家を建てたんだから,アンタたちもがんばりなさい,と。子供部屋もつくったわよ,と。でも,それをつくったところで,勉強するかどうかは別問題。つくるとしても,鍵付きの個室なんか絶対やめて,「共用の勉強部屋」と「共用の寝室」でもう十分だし,床面積が足りなかったら,寝るためだけのスペースで十分。勉強は食卓でするでしょう。

上り框をとっぱらえ

僕が土間に期待しているのは,その昔,普通に見られた住宅内での学習機能。農家でも職人でも家の中の土間で仕事をして,子どもは親の手伝いをしたものでした。働くことをまさに親の背中を見て学んでいたのでした。今の職住分離タイプの住居には到底無理な話でしょうが,それでも,少々汚れても気にならない土間ならお父さんの日曜大工だって,お母さんのガーデニングだって,土間ならばできるでしょう。またそれがなくとも,現実的なことをいうと,住宅内でのパブリック空間とプライベート空間が土間をつくることで整理できる。台所食堂をパブリックなものとして位置づけ,「客間」なんか設けず,そのDKを客間として扱う。子どもはいつも外部の人間が来る部屋で食事をすることで社会との繋がりを身につけていく。ドソク履きにしておけばより開かれた近代的な住まいになるような気がする。もっと下世話なことを言うと,必要な日常品が床に散らばることも無く,片付け下手も強制的に片付け上手になってくるはずだ。