藤森照信先生,退官される!

とうとうその日が来た。建築史家としても建築家としても大変尊敬する藤森先生。今年度で退官されます。先週末,退官記念の国際シンポジウムが開かれたようで,おそらく年末から来春に掛けて最終講義のシリーズがあるとおもいます。これには行きたい。ミクシーの人は知ってるかもしれないけど,僕は藤森さんのコミュでストーカーかと思われるように投稿を繰り返している。そう,ストーカー気味です。大好きです。彼のやってることは興奮します。頭の悪いなりになんとか彼を理解して,なんとかそのエッセンスから新しい地平にたどり着きたいと思っております。

藤森先生を知ったのは,高松高専でまだ土木工学を勉強していた頃,先生の代表作である『日本の近代建築』(岩波新書)を読んだ時でした。それを読んだ後,ある大学の編入学試験の面接官に「知っている建築家名とその作品を言ってください」との設問に「辰野金吾,日銀本店。安藤忠雄住吉の長屋。」といい,面接官が苦笑いしていたのをよく覚えています。先生はその本を書いた後,歴史研究から距離を置き,建築家藤森照信として歩み始めます。

藤森先生は東北大学の学生の頃,設計を止めて歴史にいこうと心に決めたそうです。ただ,最近述懐しているところによると,そうではあったけれど,研究対象とした日本の近代建築を見るときには,それを設計した人と戦うようにしてみていたと言います。どういうことかと言うと,まず,過去の歴史家によって言われている以上のことを思いつく。その上で設計者が考えた以上のことを考え,なんで良いのか,なんで悪いのかについての新しい視点を得られれば勝ち。そのようにしていつも見ていたといいます。そして自分の考えを文章化していたと言います。建築家が作るのに負けないように見たい,そう思って建築史家としての日常を過ごしてきたそうです。コレ,すごいことです。僕なんか素直に歴史家が書いたことを参考にした程度で,普通の人より進んでいたことと言えば,複数の歴史家の視点で立体的に見れたことぐらいです。設計者に勝つ,なんて発想はありませんでした。この作業が,のちの建築家としての藤森先生に自然と繋がっています。

藤森先生と言えば,一般の人には「建築探偵」として,また「路上観察学会」の重鎮としての印象があるでしょうが,専門的な仕事もすごくて,日本の近代建築の全リストを作ってみたり,東アジアの近代建築のこれまた全リストを作っていたりします。それら近代建築を拾い上げる作業と同時並行で「探偵」しながら,「観察」もしていたということです。別の言い方をすると,建物がなくなっても,藤森先生の本の中では建っている,そんな状態なんです。その先生の代表著作は『日本の近代建築』と『丹下健三』です。藤森先生と僕は個人的な関係は全くないのですが,大学の助手として来ていた西澤先生(現名古屋大学)やその後に来た泉田先生が藤森先生の最初期の研究室構成員だったことから,常に,そして勝手に親近感を覚えているのでした。

かつてこのブログで日本の住宅の始まりは,室町時代に端を発していることに触れた。そして僕自身としてはその後,江戸時代から明治に至る間に熟成された日本建築の伝統を背景にデザイン思想を組み立てている。その日本建築に対しては,江戸末期に暗殺計画が練られ,明治期に毒盛りが始まり,昭和期に致死量に達して,平成の現在では瀕死の状態で生死を彷徨っている。恩師の楢村さんなど古民家再生工房の人やその弟子たちは,その「毒盛り」がなかったならば,21世紀のこの時点では,どんな住宅になっていただろうと,デザインを続けている。僕もそうだ。

それで,藤森先生はどうかと言うと,室町以前の世界,つまり,まだほとんどの住宅が竪穴式住宅だった頃の世界から,室町時代へ移行する地点の建築を,言い換えれば,単なるネグラだったタダの家から,美しさを備えた家へと移行する地点の建築を造っているのだ。古民家再生工房がヴァナキュラーの世界でデザインしているとすれば,藤森先生は,プレ・ヴァナキュラーの世界でデザインしていると言える。

ここで不遜にも藤森先生の最終講義のアウトラインを予想してみよう。

「(まず,神長官守矢資料館から始めて,自作を解説する。約40分間。その後こう言う。)私は幼い頃,自宅を新築している大工らを見て,建築に憧れた。だが,大学に入ってみると,どうやら施工は大学では学べないらしいことを知り,それでは面白くないと,歴史研究に没頭した。そこでは,数千に上る近代の建物を拾い上げたり,探偵したり,ときには建築外のものを観察したりもした。40歳を少し過ぎて,設計する機会を得,その頃から新たな視点で歴史を見直してみた。20年ほどの間,まるで相撲を取るかのように勝負してきた歴史研究で学んだことは,これまで私を含め諸先輩が書いてきた建築史は理屈で話せることだけだったが,理屈でない世界がまだまだあり,そちらの方が遥かに興味深く,新たな可能性を示してくれているということだ。同時代の建築家たちが理屈合戦をしたり,またそれに疲れた者が成金の奴隷のように建築している姿を横目にみながら,私は内心ほくそ笑み,そして大いに興奮していた。原始から現代までの建築を見るにつけ,その言語化されない新しい建築たちは,私の頭のデータベースに未整理のママ,時には私自身と同化しながら,ゆらゆらと旅をしていた。面白いことにそのデータをアウトプットするには,考えてはいけないというルールがあるらしい。何千とあるデータベースのうち,アノ建物のアソコや,コノ建物のココを意識して鉛筆を走らせると,どうもしっくり来ないのだが,固有のアイドルを意識せず書いた方が,一見変な風貌の建物であっても,その方がずっと存在感が出てくる。言葉よりもモノの方が強いということか。そういうルールがあるらしい。らしいと気付いたのは処女作で。そして確信したのはすぐ近くの高過庵で。以後,原初のアナグラ空間を現代に再現してみたり,生きてる屋根を演出するために軒先を地面スレスレまで落としてみたりした。かつては過去のものを,その当時の世界観で生き生きと文章化することが自分の仕事だったが,いまでは,過去のものから教わった,あってもおかしくないであろう現代の建築を造り続けている。文章化できることは建築史家藤森がしたが,文章化できないことは建築家藤森がしている。」


来春には,僕が書くこんな駄文を飛び抜けて,藤森先生は新たな地平を僕らに見せてくれるでしょう。辰野金吾を越えて,伊東忠太を越えて,村野藤吾を越えて,そして丹下健三を越えて,大建築家としての人生を再スタートしてください。退官後は,アカデミックな世界とは距離を置き,自由な世界で,そうですね,あと30年間くらい,90歳に至るまで,その業績を積み上げてください。遠く倉敷から応援します!

と,ファンレターに書いてみようかと思っている。封筒はどこだ。