自分中心

いま住んでいる児島という地域のことをよく考えます。この間は地域の図書館の郷土史コーナーの本でめぼしいものすべてに目を通しました。郷土史というのは自分たちの町をよりよく考えたいと思う人が書いているものなので,悪くいえば品のないジマンのオンパレードみたいになってしまいます。例えば書名だけ読むと、そういう意味では「これは酷い」と思ってしまうこの本

角田直一,『児島の日本一物語』,児島ライオンズクラブ,1988

この本なんかは,角田直一さんが書いているからいいものを、二流の郷土史家なんかが書こうものなら,笑って捨てられるものになります。おまけにライオンズクラブの名で出しているから,信用されにくものです。でもこの本、角田さんなりの目で見て、児島にはこんなものがあるゾ,全国的に十分通用するゾ、といまでも教えてしてくれます。

地方都市の活性化とか、首都圏との格差増大とか、言われて久しいですが,年を追う毎に沈んでいく地元産業をみていると、残るのは公務員と観光だけかと感じることもあります。また、この現状を許している国の政策というのは、もしかすると意図的なのかと深読みしてしまいそうです。官僚たちというのはもしかすると大バカものなんでしょうか。代わってあげようかと言いたくなります。教育のことだって,中学校から私立の進学校に行かせて,東京の優秀な大学に行ってほしいと親が望んで、めでたくその通りになったとしても、大学を卒業して児島に帰ってくる見込みはないのですから,親としては複雑なものです。半世紀前のように兄弟が3、4人いるような世帯は少ないですから,夫婦二人で寂しい老後が待っているだけです。

専門の建築の話で言うと,新築される住宅の8割くらいが「サイディング張り」の外壁を持つ住宅のように見えて、貧しくて仕方がありません。サイディングとは60センチとか90センチの幅を持った板状の外壁材で、セメントや金属、セラミックで出来ています。このサイディングは、施工が楽で耐久性もあるので,重宝されていますが,どうも見た目が良くない。実物は15ミリ厚のものが多いのですが、それ以上に薄っぺらに見えるし、接着剤の匂いがしそうだし、時間が経つと紫外線の影響で色が飛んで白っぽくなります。だいたいの製品が、見た目に無理をしていて、「石目調」「レンガ調」「板目調」と、1ミリ以下の凹凸を付けて、なんとか雰囲気を出そうとしていますが,それが逆に安っぽさを助長しています。戦後の住宅難に国の政策でどんどん簡易な家が出来ていった成れの果てがこの有様です(良い面としては、スクラップ・アンド・ビルドのサイクルが早くて,何でも自由に作れる状況があるので,他国に比べて前衛的な建築家が多いことです)。どうかこの文章を読んでいるあなたの家は、今度工事するときにはサイディングは使わないでください。

児島や倉敷、そして岡山といった地方都市の惨状と、サイディング住宅の貧しさが、僕には同列に見えます。これらの現状をひっくり返すにはどうすればいいんでしょうか。

乱暴な提案をすると、一つの方法は、雇われて生活するというかたちをやめてみること,自分で仕事を作り出して生活することのように思えます。それができなくても目の前の仕事を自分のものとして取り扱うこと,他人事ではなく、自分自身から切り離せない尊いものとして、扱うことです。そうすれば、少なくても自分自身に誇りが持てるし,統計上のお金の動きがなくても、豊かな生活ができそうです。そういう意味での「自分中心」というのは、結構いいかも知れません。