自称作家/作家

最近、母の手芸趣味が加速している。以前から、油絵を書いたり、小さなお人形を作ったりと器用な人だったが、ここ数年みるみる上達している。今の季節はクリスマスリース、それが終わると正月飾り、二月には雛飾り、七夕飾りなどなど。老人向け施設で働いている彼女は、おじいちゃん、おばあちゃんにその飾りをプレゼントして、喜ばれ、その感謝の気持ちを原動力に次の製作に取り掛かっている。同僚にはというと、材料代だけをいただいて売っているようだ。こうなるともう、公民館で講座を開けそうなくらい。季節を楽しむ手芸教室。私って作家みたいじゃろ、とこの間言っていた。似たような人は他にもいる。通っている教会の牧師は、陶芸の腕が上がっているし、義父は日曜大工の先生だ。妻の描く絵は幼児向けの絵本には最適だ。

では、母は作家なんだろうか。本来、作家とはどんな人のことをいうのだろうか。クエナイ作家という表現があるけど、食えていたら誰でも作家であるはずも無い。

母と同年代の秦泉寺由子というキルト作家がいる。

http://www.yoshikoquilt.com/

一度その作品を拝見したが、かなり迫力があり,圧倒される。キルトというと,ウチの母くらいの年代では,趣味の範囲で誰でもできるようなものである。そのキルトで世界的に評価されている。「キルトのジンゼンジ」として名が通っているのだ。

誰でもできるような種類のものを、すごい!といわせているのは何か。それは単なる布の継ぎ合わせではなく,現代芸術としてとらえているからだろう。様々な生地を手に取り,その質感、色艶、重量感、色合いなどを吟味し,巧みにコンポジション・構成を作り上げていく。構成の美なわけだ。彼女の評価軸はおそらくそういうところにある。普通の人でも出来ることを芸術の域まで押し高めたのだ。これは難しかったはずだ。

作家であるかどうかというのは,そのように高い志を持ちながら,現代アートとしての質を持つものを作っているかどうか,という点にあるように感じる。また、今その質を獲得できていないにしても,おそらくそういう指向性があればいいのだ。その人固有のストーリー展開も必要だ。こうこうこういう理由で私はこれを作っています,今の社会に必要なんです。と語れなくてはいけない。好きだから作ってます,じゃあ、趣味になる。

僕の身近には,手芸、工芸をしている人が多くいる。それを生業としている人がいる。ガラスの器、アイアンワーク、じゅうたん、切り絵、ステンドグラス、陶芸、アクセサリー、木工家具などなどだ。彼らはみな懸命に良いものをつくろうと日々心を砕いている。彼らが正当に評価されて、適切な報酬を得て,我々の生活が豊かになることを望んでいる。この中では誰でも出来るという意味では,切り絵が一番難しい。切り絵の技術は複数枚のシート上のものを重ね合わせて、立体感を与えながら,枠の中で色と形を踊らせるものだ。レイヤリングアートだ。この基本的成り立ちをふまえながら,作家個人の特徴を表現するような技術を開発し、あの人でないと出来ない,と言わしめるほどのものを作らないといけない。これは難易度が高い。

僕自身に置き換えて言うと,いつも身につまされるのが,古い民家たちだ。特に江戸時代のものと明治時代のもの。無名の大工が作ったものだが,これが、とびきりプロポーションがいい。屋根の勾配といい,壁面の割合といい,お手本のようなものが多い。また、細部をみると,左官が鏝で作った陰影のある漆喰などは、ギリシャ神殿のオーダー(柱のこと)にも似た風格がある。これら古い民家たちに住んでいる施主さんに、再生してほしい,と依頼されたときには,正直何もしない方がいいんじゃないかと思う物件もある。自分が手を加えない方がいいと。そういったときは必ず戦後期にだめな大工がベニヤ板で適当に改造していることが多いので,それらをひっぺがし,本来の姿に戻してあげることが常だ。そのあとで、かつての大工の作品の上に、現代を生きる僕らが尊敬の念を抱きながら,少々の操作をすることになる。

明日もがんばります。