仙芳丸の教訓:同じ土俵で戦わない

仙芳丸の続きです。
仙芳丸は,魚問屋ではなかったと書きました。問屋ならば,魚を捕ってくる漁師から値を安く買ったものを,大阪まで運び,高く売っていたのでしょう。仙芳丸は自らが漁をしていたので,自分で魚を捕って,自分でビューーンと大阪までいき,魚を売っていたのですから,魚問屋から見れば、目に触る存在だったでしょう。一匹狼的に動いていたんですね。昨日書いたことを含めて、たまたま,今日父に会う機会があったので聞いてみたら,父も同じ話を聞いていたようでした。
魚問屋は,安定して漁師から魚を買い付けるために漁師にお金を貸すこともしていたようです。また、たくさんの船を持つ必要があります。一方、身軽な仙芳丸は自分で獲ってすぐさまビューーンです。安定して魚を獲れる自信があれば,自分で直接売った方が、高い利益が得られるに決まっています。

仙芳丸は魚問屋と同じ土俵で戦うことをせず,身軽に動ける状態をつくって,魚問屋のような大所帯では出来ない荒技をやってのけたと言えるでしょう。同じ土俵に載ってしまうと,どうしても小さな差異しか見えず,いいモノを持っていても魅力的に見えないことがあります。財力がなくても船がたくさんなくても、「速い」という一点で、勝負に勝つことが出来ました。これだけは他に先んじている、というモノがあれば,それを前面に出すことで,他者から見れば魅力的で、わかり易くなるのかも知れません。
ちなみに、魚問屋は,財力があり、船もたくさん持っていたので,世の中が海運から、鉄道にその交通インフラを転換させていった時には,後に金融や運輸の業者として、成功していった者もいたようです。
山口家一族は,おとなしく一介の漁師として,その役割を終えました。昭和の終わりに「センヨシの子」と呼ばれた晋作は、近代教育を受けた後,今ここにいることになります。