閉じるのではなく、開くのである。

児島の老舗喫茶店「ワーゲン」の店長が、「児島の会社は横の繋がりがとれてなくてだめですよねえ」、なんていうのは、長老・内田祥哉先生が数日前に日経の記事で「戦後に住宅メーカーが発足当時は、各メーカーが固定したモノを作っていたが、後に会社の枠の中での<自由設計>というモノを作り上げてきた。でも各社の枠内での<自由>だから、改造の依頼を受けた地域の大工では手が出せない。私が提唱したのは、会社の枠を超えたレベルでの<自由>でありオープンなものだった」といっていたが、彼ら先輩二人が指摘することの原因が何であるかについて、若輩者の私が、私なりに翻訳してひっくるめて言うと、産業から出発しているのが敗因であり、生活から出発すれば、それを打開できるはずである。
産業ではなくて、生活なんだよな。というのは、言い換えれば、閉じるのではなくて、開くんだよな、それがポイントだよ。ということになるが、<自由設計>が聞いて呆れるが、児島のジーンズストリートに、先日会社生命が失われた「ビッグジョン」がお店を構えることがついぞ実現しなかったのと同様に、住宅メーカーというのは、個別の利益を最大にすることが目的なので、手をつないで、仲良くしましょう、というのは、所詮無理な話だ。個人の付き合いでも、閉じた状態で交際もせず仲間がいないのは寂しいので、ある程度の礼儀・作法を経た上に、仲良くしましょう、という段階が訪れるのだが、利益優先の産業の場合、その作法というのは、損か得かであり、突き詰めれば、数字の世界であり、数学の世界であり、数学が哲学を持たないのと同様に、「損得」と「仲良く」というのは、相容れない要件であって、どう考えても、無理筋である。
下津井にある明治39年1906年)築の私の生家は、京町家のごとく、鰻の寝床スタイルであり、土間が玄関から奥までずうっと繋がっていて、一番奥には井戸と台所があるのだが、タタミの方式で、京間と関東間があるが、江戸時代にナウでヤングな街だった下津井の家は、京の香りがする「京間」別名「本間」方式をとっといて、この家の実測をしてよく分かったが、この家のタタミはどの部屋も同じサイズで、タタミの大きさを基準に建てられた「本間」であり、さすが、北前船の影響もあって独自の方言が発達する程の文化が栄えた下津井である。あじな(特徴のある)家である。
タタミを中心にしたオープンシステムというのが、かつてはあったのだが、つまりは、部屋の大きさが決まれば、家の造り方が決まる、という素晴らしい方式がかつてはあったのだが*1、この方式は室町からはじまり江戸後期に頂点を迎え、明治、大正と綿々と繋がってきたのだが、それを壊したのが、住宅を造るのは産業なんですよ方式であり、庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきた「タタミ中心オープンシステム」を、戦争と産業(つまりは金儲けか)で壊したのが、大間違いであり、インターナショナルスタイルのごとくに、上からやってきて世界どこでも同じものをつくるのではなく、下から作り上げるオープンシステムが、本来歩むべき王道なのである。
上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事である。わざに(特別に)つくるのではなく、自然にできるものが、耐力があり、美しく、みんながハッピーになれる方法である。

*1:この寸法感覚を持ち、木肌の美しさをコンクリートで再現してみせたのが、安藤忠雄先生であり、彼が世界で受けたのがこの二つのポイントである。つまりひとことでいうと「これはコンクリートで出来た木造住宅だ!わお、すごい!」という評価だったのだが、本人がどこまで狙っていたのかは正直ナゾだ笑。