ひとり講評会

  • 見学会、というのは、実物の住宅を見て、ああなるほど。ここの方はこんな家を造るひとなのか。というのがわかるもの。
  • 作品展、というのは、写真などを通じて、その方が伝えたいことを、関係諸氏に訴えまた問う行為。
  • 講評会、というのは、手厳しい先輩から、ここはなんだ、どうしてこうなんだ、全然だめじゃないか、とご批評を頂く行為。

地方都市の売れない建築家が、進んで行なうべきことは、よく工務店がおこなように新聞折り込みなどに「住宅見学会開催します、こんどの土日!」とか、広告を載せることではなく、また、とりあえず、手当たり次第、友人知人に向けて、「あたらしい家が出来たけん、みにきてねー、できれば、家を考えている人もつれてきてねー」となんていうのでもない。
地方都市の売れない建築家が、進んで行なうべきことは、地方都市の同業者、もしくは美術・芸術・工芸・民芸などに親しみ、生業としている人に向けて、講評会を開くべきであり、「この家、いいね」というのをNGワードに設定して、NGワードを三回言ってしまった方には、誠に申し訳ないが、お帰り頂くとか、まず批評ありきの講評会を開くべきである。私も学生時代に経験したが、同輩の者のまえで、吊るし上げに合うようなあの感覚は貴重な成長の場面であり、「この家、いいね」といわれても、成長するものではないのである。お世辞じゃあないのよ、ほんとにいいね!と思っているのに、人の気持ちを素直に受け取りなさいよ、という有難い声もあるかもしれないが、ひねくれているわけではなく、それはそれで有難いことではあるけれども、これが素直な気持ちである。日頃、人の作品を見て帰り道でブツブツ言っている、そのブツブツを本人に投げかけ、いや、突き刺してもらいたい、ということである。

こんなことを言うのは、古い民家に親しんでいると、現代にまで生き残っている民家のディテール、民家を民家たらしめている要素というのは、ちょっとやそっとでは、生まれないものだというのがよく分かっているからである。一個人が思いつきで考え出したものなど、500年くらいかけて多くの先輩が積み重ねて、フルイにフルわれて生き残ってきたものにくらべれば、ゴミのようなものである。一方、ほんの100年ほど前にスタートした国際標準化を錦の旗印にした若造一族たちが行き着くところは、すべての宗教・風俗・風土はもうナシなのよ、すべての建物は白い箱でいいのよ、これからはアジェンダ21なのよ、どこまで徹底してキレイに見せるかがこの短距離走のテーマなのよ、この住宅ではウンコはしないのよ、みたいなかんじであり、そんな嘘くさい方向に右に倣えとしていると、トップを走っている建築家以外は、みな、なんとかホームやなんとかハウスの上級版に見えてしまうのであり、延いては、それが、現代日本の風景をメタメタに壊している要因なのである。


(工事中のHappy-Line)

「風景になる住宅」というのが、地方の売れない建築家がナリワイとして住宅建築を作っていく基本テーマではあるが、そこから別の道を探していくというのも、また人間の欲望ではある。ただし、矢吹さんのような能力を持たない私がそれをすると、別の道を模索しすぎて、そのまま深い森に入り、やっとのことで森を抜けて街に入ったかと思うとそこでは裸の王様であり、その後素っ裸のまま迷子になり、最後は凍えたまま行方知れずで死んでしまうという、不幸な結末になるのが、わかっているから、ここでひとつ、講評会を開くべきであるというのが、きょう、朝起きて一番に考えたことである。講評会は通常たくさんの若輩者が数人の先生に見てもらう行為であるが、今回はその逆であり、一人の若輩者がたくさんの先生にメチャクチャに言われるというのを期待していると言う「ひとり講評会」である。とりあえずは、楢村さんに長く居座ってもらって、おまえもまだまだじゃな、と30回くらい言われるのが目標であり、すぐに帰ってもらってはこまるのである。


(Classic-Lineの代表作品)