ソーホーのロフト感覚の源


(山口自邸、学生服の縫製工場の再生)

縫製工場を改造して住居にするというのは、東京発の雑誌的には「リノベーション建築」の一例として、興味あるところかもしれないが、ここ、倉敷市児島という街に住んでいると、それが、そんなに珍しいことではない。なにせ、昭和30年代には、岡山県内のみならず、九州や四国、山陰からも「児島に行けば、仕事がある」という触れ込みで、集団就職の少女たちがたくさんやって児島に住まい、町中がミシンの音で五月蝿いくらいだったからだ。彼ら60歳代、70歳代のおばさんたちは、かなりの年月が経った現在でも、ミシンの早業大会に出れそうな感じで、ガンガンと内職をしている。
ニューヨークに「ソーホー」という著名な地区がある。あそこも、元はと言えば、縫製工場の集積地域だった。ソーホーの場合は、廃れた工場街を芸術家が低家賃で借りた上で、勝手に改修して、それが評価され、建物の価値を高めた。いまでは高額所得者しか住めないような街になってしまったのは誤算だが、そういった面を含めて全世界にその存在を示し続けている。時間のある人はググればいいけど、あそこのロフト階には、実に魅力的な室内空間が溢れている。あの感覚は、どこから来るのか。


(カフェゲバ、薬品工場の出荷場の再生)

ソーホーの芸術家たちが、自分たちの感覚でどんどん好きな改修を繰り返していったのは、大前提としての高層の近代建築があったからで、それなしには、魅力的な空間は出来っこない。かれらは、味の無くなったガムのような風貌をもった天井の木材や、仕方なく積まれたレンガの壁を見つめて、そこに新しいいのちを吹き込んだ。何も、無から有を生み出したのではなく、目の前にそびえ立つ相手に対して、金のない自分たちが出来ることを懸命にやり抜いたことが、現在の評価に繋がったのだ。
別の例を出そう。ヨーロッパの都市建築の場合で言うと、あそこにはいまだに第一次大戦後くらいに作られたレンガ造が主流を占め、もっと古いレンガ造、そして石造の建築まである。そういったものを目の前にして、それに対抗しうる建築を作るというのは、やはり、ある程度の器量がないと、対峙できない。それは、ハンスホラインが宝石店の入り口を巧みに造りだした(参考1参考2)ように、周りに立ち並ぶ重厚で高度にデザインされた先輩世代の建築に対して、どうにか負けまいとして、ホラインが挑んだ結果であった。

日本ではどうか。ご存知のように、戦後日本の住宅というのは、材料難の中、最低限のレベルの住宅を造ることが、まずもって急務であり、数を作ることが、第一に求められた。それが、住宅メーカーという世界に類を見ない(国策による)生産構造を造りだし、今日の日本の住まいというものを外見的に形作っている。そういったところに、「重み」や「強さ」、そして「美しさ」を求めることは酷であり、彼らが現在でも住宅を作り続けているこの状況については、役割を終えたはずの住宅メーカー自身も考えもしなかった状況であり、たとえば、ダイワハウスなどは自分自身で驚いていることだろうと思う。

古民家再生工房の先輩たちは、住宅メーカーに端を発する無国籍の住宅が増え続けていくことに、非常な危惧を覚え、なんとかしてまともな住宅を作ろうとして、いろいろな試行錯誤の末に、「古民家」というものを建築空間を構成する要素の一つとして捉えて、ヨーロッパ風に再生しようと考えたのであった。そこには、「古民家の設計者」という無名の先輩がおり、その多くの先輩によってフルイにかけられて、最終的に生き残った技術を目の前にして、その建築に負けまいとして、現代的感覚で戦いを挑んだのであった。

ソーホーのロフト感覚の源というのは、そのように過去の遺産を前にして、懸命に自らの創作を行なった結果である。急に「今日」は現れないのだ。過去と現在は繋がっていて、今日があるのだし、実のところ、そのような過程を経て世に生まれて来たものと言うのは、インスタントなものよりも、普遍性を得て、親しみ易く、魅力的でもあるのだ。


(新築住宅の狭い居間)


(新築住宅の外観)