ワイルド系

 以前、「ほっこりさんは嫌いです」という記事を書いたが、最近は「ほっこり」という表現は余り聞かなくなった。かといって、絶滅したわけではなく、「ほっこりさん」はいまだに生息している。ナチュラル系、とでも言えばいいのだろうか。あの記事を書いたあと、「リンネル」という雑誌が発売(2010年秋)されて、「ナチュラル系」勢力は衰えるばかりか、まだまだ勢いがある。この路線がどこまで続くかしらないが、「ほっこり」を聞かなくなったということは、そんなに長続きはしないんだろう。
 なぜか。団塊ジュニア世代で元祖就職氷河期世代である私から見ると、同級生の半分くらいは結婚していないし、年収を聞いても大体残念な感じ(高専同級生の土木系公務員のぞく)だから、低燃費でどこまでも走るクルマが喜ばれるのは分かるし、100均でいくらでも日常の道具類が揃うのはありがたい。だけど、いつまでも禁欲生活は続かないのであり、色艶のあるものが好まれていく段階は、人間の欲求として確実に到来する。同級生たちは、大して収入はないけど、悲観しているわけではなく、このまま生きて行けるさ、大丈夫さという感じでみんな生きている。実感として感じるところで言えば、実はお金がなくてもそれなりに生きていて行けることを肌身で感じているのである。
 勝手にいい加減な予言をしてみると、今後は、「ナチュラル系」に代わり、「ワイルド系」というのが、台頭して来ると思う。できれば、世界のほとんどの中央銀行を牛耳っている国際銀行家たちにこの世界からご退場願って、江戸時代のような豊かな世界に戻りたいのだが、そこまで行くにはもう少し時間がかかる。その前には、東京のどこかの河原で勝手に稲作を始めてモンサントに無自覚に敵対したり、クルマが持てないので自転車でダイナモを回しながら、あれ?電気ってタダじゃね?とか真実に気付く者も現れるのである。まさに彼らは、「ナチュラル系」を通り越して、「ワイルド系」であり、某芸人が戯言を言うようなレベルではなく、たくましく、段ボールハウスをゼロ円で造りながら、都会で優雅に暮らしていくという意味での「ワイルド系」である。同時に、有機農法ではなく、自然農法が普及して行く様は「ナチュラル」ではなく「ワイルド」を地道で進んでいる。
 かつて、楢村先生は、大胆にも住宅に「ピンク色のシックイ大壁」を導入したが、貧乏路線・荒削り路線を邁進する私には、シックイなどという高級素材は相応しくないので、石膏プラスターに塗装したり、モルタルに塗装したりして、荒削りな木材のなかで、色艶作戦を敢行しているのである。「ナチュラル系」からは、「ああ、はしたない」「あれ、大きな声で言えないけど、きたないよね」などと言われているようだが、人間が性欲を抑えられないのと同様に、麻(リンネル)みたいな清々しい生活、という、中学生の理想のようなものは、早晩廃れるにきまっている。
 最近、宮本常一先生の『忘れられた日本人』を読んだが、そこでは、「旅人(つまり宮本先生自身)は、お米を持って旅をしたが、田舎の人たちに聞くと、昔は、お米を持った旅人はみんな無料で宿に泊まれた」と書いてあった。ジョンレノンも「国家なんてないんだ宿泊費も食事代も洋服代も本当はタダなんだ」と歌っていたし、マイケルジャクソンも"money"の中でお金を神様にしている人たちを痛烈に批判している。戦後の住宅生産構造は、国民の生活水準を上げるために、国家的に作られたものだったが、今になって住宅があまりに余っている状況を見ると、家というものはそんなにお金が掛からないものなんだ、というのを人々はわかってきている。誰も大きな声で言わないのは「負け犬の遠吠え」だと、言われるのが嫌だからであるが、自分が持てるお金の範囲内で、最大限の賢い使い方をして、自らの住まいを整えるというのは、誰にでも出来ることである。ポイントは、戦後の住宅生産構造から外れたところで、自分自身の戦いを始めることである。



(退屈な日本車に戦いを挑むゲリラ戦士の一例)