インテリアとか。

 雑誌で言えば、老舗の「モダンリビング」や「住まいの設計」、そして最近は「I’m home」「ELLE DECOR」などもその仲間となった「インテリア系」の話をする。
 インテリア(内部)というからには、外部(エクステリア)の世界も当然あるわけだが、それはやっぱりヨーロッパのレンガ造の家の場合を前提にした感覚であって、本来、日本の住まいのように、柱がぽんぽん立っていて、壁がなく、障子一枚で、うちと外とが互いに交差する住まいには、似つかわない概念だったはずだ。では日本で世間がその感覚を認知し始めたのはいつかと言うと、「モダンリビング」や「住まいの設計」の発刊が、ちょうど50年から60年前らしいから、ちょうどその頃から、「住まい」を考えるキーワードとして、認知され始めたと考えていいのだろう。
 戸建ての住宅が建て始められ、文化住宅とか、呼ばれた始めたのもこの頃だ。「三種の神器」も普及しつつ、高度成長期にさしかかり、人々の生活にはかつてなかったような「ゆとり」が生まれ始めたのも、この時期だった。一般的な説明では、ゆとりができたから、贅沢品である部屋の中の生活雑貨とか家電を買い求め、そこから、日本なりの「インテリア」という概念が定着し始めた、というのが、常套句だろう。
 でも、どうだろうか、こういうことは批判的に発展する面もあるわけだから、やはり、当時の人たちも自分たちの住まいに対して不満があったのでないだろうか、きっとそうだろう、そんな風に想像してみた。
 くり返し言っているように、そして、この記事を読んでいる年配の人たちは実体験したであろう戦後の住宅というのは、お世辞にも「いい家」とは言い難かった。いまではこれもリアルな認識はないかもしれないが、当時は「公団住宅」というものが、輝かしく見えた時代で、公団住宅がその当時の住まいの基本形を示してみせた。「nDK」の誕生である。食寝分離と「nDK」の発明により、日本の住まいには、雛形と文字通りのお墨付きが与えられ、ハウスメーカーだけでなく、従来の大工たちも新しい住宅を作り始めた。そのなかで、自分たちの手で、生活をよりよくする一つの手段として、「インテリア」が生まれ、生き延びる隙間があったのだろうと考える。やはり、「住まい」は自分たちの手に負えないのか、それでは、その周辺をやってみよう!そんな感じではないだろうか。
 「生活をよりよくする一つの手段」として、「インテリア」という世界を作ったのはとても良いことで、それは、自分たちの生活をハンドリングして、自分らしい、そして、自分の家族に相応しい住まいにしていこう、とする行き方だろう。だからこそ逆に、建築界からは、卑下してみられたのもまた事実だった。なんでもそうだが、単純化したことが世の中に広まると、その世界への理解が単純化された状態でとまってしまう。不幸なことだが、「nDK」理解がそれを固着させたように感じる。だから建築専門家たちは鼻で笑ったし、雑誌の扱いも低かった。しかし、そんな意識を持ったところで、それは単ある独りよがりであり、何の解決にもならない。そんなことでは、日本全体の住まいはよくならない。


(中身は「51C型の豪華版」で、外観がけが違う日本の住まい)

 ここまで考えると、間接的にではあるが、日本におけるインテリアの道備えをしたのも、やはり公団住宅51C型を考えた「西山夘三」先生なのではないかのか、という気もしてくるし、日本の住まいは、西山夘三の世界から出ておらず、いまだに、未開の地となっているようにも見える。
 おっ!未開の地なのか、未開の地ならば、これから開拓する余地はたくさんあるはずだ。
 そう考えると、楽しくなって来た。さあ、また、仕事に帰ろう。