児島で浦辺さんの作品,発見!

前々から怪しいと思っていた建物

両備バスの建物なんだけど,なんとも,いえないこのカタチ。これはきっと誰かの設計だろうと前々からマークしていました。


それで,この間の豊橋講演の準備中に,浦辺さんの作品集の最後部にある作品一覧の中に「両備バス児島営業所独身寮 1966年 RC4階建」という文字を発見。おおこれだ!とピンときて,昨日,1966年築であることを確認しました。この格子なんかは,「私は浦辺です」とサインしているようなものです。

それで,今日,つい先ほど,取材してきました。はやいでしょ。歩くの速くしたんですよ。事情を説明し,中を見させて頂きました。(こういうの,慣れてます。百戦錬磨って感じです。)独身寮なので,男女の入り口を別々(男が北,女は南)にしていて,しかも,階段も別々,入り口から4階の一番上まで導線が交差することなく,生活していたようです。そこここに浦辺デザインの匂いがしていました。二階以上は使っていないらしく,その気になれば,2社から6社の賃貸事務所として,貸せそうです。(お前が借りろと聞こえてきます笑)

3年後に出来た,倉敷文化センター(現,倉敷公民館)はこんな感じです。

奥は,薬師寺主計の中国銀行倉敷支店(現倉敷本町出張所)です。

なんとなく,目指している方向が似てますね。両備バス児島の外壁にある三本の雨水を切る段差(水切り,と専門用語で言います)を瓦に置き換えれば,かなり近づきます。浦辺さんは当時の主流なデザインからは距離を置き,地方の建築家として出来ることを模索していたようです。京都大学卒業時から一貫して,倉敷にこだわり,地方の建築家としてその道を切り開いてきました。実質的処女作の「倉敷考古館増築(1957)」に,既にそれを感じます。

その後は「大原美術館別館(1961)」,

建築学会賞(作品部門)を受賞した「倉敷国際ホテル(1963)」,

建築再生の先駆け「倉敷アイビースクエア(1974)」,

イクラスのホテルのような「倉敷中央病院(1975)」

と続いていきます。


この物件,両備バス児島に付いては完成時に雑誌で発表しているようなので,現在その雑誌を取り寄せ中,取り寄せ後に続報を書きます。