脱産業的住宅の例;モルタル下地のペンキ塗り

建築ブログなんだから文字だけではつまならい、しかも建築の話じゃあないし。との至極当然のお言葉を友人から頂き、日頃はそういう言葉も無視する様な無頓着な私ですが、徹夜明けで宴もこなしてしまって疲れ切っている今日の私はそのリクエストに抗う力もなく、写真を掲載することにしました。

モルタル下地のペンキ塗りの浴室」というものですが、これを考えた30才の頃に、「脱産業」なんていう考えを持っていたわけではなく、当時は肌感覚で結果として何となくここに行き着いただけですが、後付けでもいいので、つじつまの合う説明が出来るのかどうかが大事で、それでなるほどー、と思ってくれればいいのである。
その昔に告白して振られた相手に、時間が経った後もう一度アタックしてみて、めでたく交際が始まったというのが、今回の例であり、モルタルの上にペンキを塗った壁のお風呂というのは、ある一時期の庶民住宅では当たり前の方法だったのに、今ではタイル貼りの風呂を通り越して、ユニットバス全盛であり、「え!?モルタルにペンキ?なんですかそれ?」と言われかねないご時世ではありますが、昔途絶えた技術をその枝分かれした地点にまで戻って今の方法で再現してみたら、どうしたこれがなかなかいけるじゃあないか、という例であり、モルタルもペンキもそれぞれ時間が経過して質も作業性も耐久性も高まり、ユニットバスの継ぎ目のカビ発生に頭を悩ましている奥様方には、継ぎ目の全くないモルタルペンキ壁の浴室というのは、ナウでヤングな方法である。
家庭用ビデオの方式でベータかVHSかというのと同じで、トロンOSかMS-DOSかというのと同じで、技術の転換期には政治力も加わりつつ、敗者と勝者が生まれるわけだが、トロンOS開発者17名が搭乗していた123便アメリカの軍事力の前に撃墜されたというのは本当なのかどうかということは横においておいて、この「モルタル下地のペンキ塗り」という方法は、一度は敗北したが、地方都市の私に見初められもう一度ラインナップに乗って来たのであり、またそれは無味乾燥で味気のない室内になりがちな日本の民家において、僅かながらも花を添える存在であり、メンテ費用のかからないのが塗装工事の強みなのだから、五年に一度くらいの頻度でペンキを上塗りするくらいの感覚で、何なら色も変えてみて今後もお付き合いするつもりである。
こういった感覚は、古い民家をさぞ大事そうに崇め奉る感覚からは生まれず、どうやったら、現代住宅に生かせるだろうかと、昨日私がしたように寝ずの番で夜な夜な考える感覚であり、個人で言えば、真面目一徹ではなく笑いのある状態であり、「ユニットバス」という産業生産物を選ばずとも、モルタルペンキの浴室というものが、選択肢の一つに加わったということで、ユニットバス屋は私のお陰で仕事上がったりである。
できれば、その昔に告白して振られた相手に、時間が経った後、今度は相手の方からアタックされ、めでたく交際が始まっていくというケースが理想だが、私がそうだったわけだが、そこまでひとっ飛びに進めない場合でもまだまだ希望はあり、氷河期世代ゆとり世代を見ていると、彼らはハナから豊かな生活を知らず、質素倹約が家訓のように生きているので、産業界に貢献できる「消費者」としてではなく、単なる「生活者」として、日々を淡々と生きていくのであり、その様なお金を使わず物を所持しない彼らの普通の生活は、脱産業路線をじわじわと静かに押し進め、産業界の指導者たちが思い描く産業立国とはズレており、気付いてみると我々の勝利である。
「住まいは性能です」というのは、何処かの住宅メーカーのキャッチだったと思うが、産業から生まれた物が最高の住まいだなどというのは、心と身体が離れている様な人間であり、そんな物は人間ではなく、動いていればそれでいいのかー!と叫びたくなる様なバカバカしさであり、体操選手のようにとは行かずとも、自由に身体を動かせる心があってこそ、本来の人間である。
最後まで書いて、やっと思い出したのけれど、この話題に似たことを過去に書いており、おヒマな方はこちらもごらんください、という感じで、日頃は二時くらいまでが通常運転の我が社でありますが、今日はこの辺でバタンキュである。