つくる、のではなく、ある、のである。

再生工事というのは、目の前の古い建物を観察するところから初めて、間取りや高さ断面など外形的なことを抑えた後、最後はこれをつくった人がどんな気持ちでつくったのか、どこに一番力を注いだのか、どこで力を抜いたのか、などなど、つくった人の気持ちを感じ取れるくらいのところまで、目の前の建物に対峙するところから、始まるのであり、そういう風に、現在の姿を知るところから始めるというのが、再生工事の基本である。
そういうことは、ヨーロッパのレンガ造建物の中で生活している人には当たり前の作法であって、何かをつくるとか、変えるとかいう前に、そこに「ある」ものに目を注ぎ、それに少しのスパイス*1を加えたうえで、次の時代に生かしていくという、そういうことを、彼の地の人たちはやってきたのであり、それを日本の民家をベースにして出来ないかと考えたのが、古民家再生工房である。

私は縁あってそういう系譜の中に身を置いているので、そんなことは百も承知なのだが、東大名誉教授の難波先生の手に掛かれば、とても高尚な響きを感じるのであるが、言ってることは、私たちと同じであるばかりではなく、じつは彼の方が後追いである。「2003年に書いた」などと強調しているが、1970年代の後半に難波先生が石井和紘先生の助手として直島に来ていたときに、まだ松本組にいた頃の楢村先生が工務店の設計担当として対応していたのだが、難波さんもその後の楢村さんの活動である古民家再生工房のことはもちろん知っているはずであり、古民家再生工房は2003年どころか、更に十年以上昔からやっているのだから、難波先生は少し謙虚になるべきである。

とはいえ、今の時代にあって、だれが早い/遅いというのは問題ではなくて、所々の考え方や気づきというものは、遡れば、近世近代の時期にその起源は生じているのであるから、ガラスの透明感溢れる建築というのが、哲学者カントの芸術感覚「芸術の中での序列は、何にも囚われない詩が一番上位であり、物質に足枷を嵌められている建築が一番下位である」から来ている、ということや、私が先日の投稿記事中で、「住宅の造り方がわからない、というのはまずいのである」と書いたことと、同じことを産業革命時代のジョン・ラスキンという人が『建築の七橙』という本の中で「釘の頭をどうやってつくるのか、今の時代の人は知らないがそれは大問題である」などと述べているのであるから、つまりは、私たちは産業革命以後の世界の枠組みの中で、幾らかの違いを持ったことを、ああだこうだと言っているだけであり、古いと思っていることが、古くなく、新しいと新鮮に映ることが古いということはよくあることなのである。
しかも、スマホ時代にあっては情報量の増大のお陰でそういう差異が増々縮まり、縮まる速度は急激に進んでいて、違いが無くなって「フラット」な状態になっていて次の扉が見つからず、水前寺さんのうたのように、三歩進んで二歩下がるのごとく、少しづつ進むどころではなく、後退するか良くても足踏みばかりをしているというのが、現代社会の悩みでもあるのだが、上記のたとえを現代の有名人に当てはめると、妹島和世先生は哲学者カントの信奉者でありつづけ、セジマ先生の先生だった伊東豊雄先生は、悩んだげく芸術活動家ラスキンの方に歩み寄ったということである。巨匠二人を軽々と位置づけるのには、少々僭越なのだが、本人たちがなんと言おうと、これで正解であり、次回の建築雑誌GAにこの原稿が載っても大丈夫である。

ところで仕事柄、「まちづくり」という活動にも、少しは足を突っ込んではいるが、上記の流れで説明すると、私自身は、マチというのは、「つくる」のではなく「ある」のである、と思っているから、ともすると、「活動」自体を楽しむことが目的になりがちな、「まちづくり」の働きの中において、マチを変えよう!とか、マチをつくろう!という入り方をするよりも、今そこにあるマチを古民家再生をする時に、古い建物を眺めるごとく、マチを眺めるという、そういう手法を当てはめるのが、ナウでヤングな方法ではないだろうか。
つまり、古民家再生の手法をまちづくりに生かせるというもので、いまの自分の立場に当てはめて言えば、下津井の私の生家に注目することが、時代の最先端になりうる、ということであり、ミース先生の格言である「神は細部に宿る」のごとく、個別具体的なものへの回答を丁寧に見つけ出すことが大事で、昨年冬に亡くなった祖父に感謝しつつ、いまは空き家になったあの住宅と再度向き合ってみる機会が到来したということである。下津井を考えることがサイセンタンである。


(写真はすべて下津井の住宅、明治39年築。)

*1:ちなみによく言われるのだが、あの「カフェゲバ」はどういう経緯で生まれたデザインなのか、と聞かれるのだが、それは、つまりは、いつもは全体がある中でスパイスを考えているところを、あのときは、スパイスだけをつくった、ということであり、突然変異でも何でもなく、私にとっては自然なかんじである。