国民の生活が第一

人の評価というのは誰しも気になるもので、言葉の安売りをしているこのブログも少しは人の目に触れているようで、Facebookの「いいね!」の数を、ちらりと見れば、キリスト教会の業界誌についての記事が一番多く、その次の「DOMA論」は、たったの「1」で、この記事の一つ前のいつもの感じのヤマグチ的べんらんめえ口調の「生活なのよね」が案外数を取っている。自分自身も忘れかけているけれど、これは建築系ブログで本来は、「DOMA論」が最多得点を取るべきなのだから、真面目に評価すれば、「DOMA論」はボツ原稿である。
もしかすると、学生がレポートのために検索して、コピペしているのではないかと思い、奥の手を使って調べてみたら、「ac.jp」の割合も案外多く、世の建築系学科の教師たちは、私の駄文を読まされているということになり、かつては研究者をめざした時期もあった私としては、なんだか複雑な感じではある。
ついでに学生に出血大サービスして、コピペ勉強法を教えてあげると、初めはコピペでもいいのだが、それを自分のものにするには十分に理解して、自分が気になる単語はしつこくトレースして、文脈から意図を汲まないといけないのだが、私はさらりといい加減な比喩でぶっ飛ばすので、「住宅産業をグルグル続け続ける自己目的化がダメ」「分断配置されて各自の持ち場でやることをくそ真面目にやっているからダメ」と書かれていたら、だるまさんが転んだ、のごとく、人が見ていない時には、懸命に自分勝手に好きなことをすべきなんだな、と解釈すべきで、ハムスターがぐるぐる回っているところを想像して、マジメなハムスターなら、疲れたらちょっと休む程度なのだが、不真面目な感じというのは、とっとこハム太郎のごとく、ケージから家からいつも出て行き大冒険をして、まいどくんなどと共に遊ぶべきで、が、しかし、バット、アーバー、肝心な時にはケージに戻って、ご主人様のご機嫌を取るべきなんだな、などと、解釈すべきで、水戸光圀公が大冒険するそばで、八のようにちょこまか動くべきで、ワンピのウソップのように必要とあらば一目散に逃げて、逃げつつやるべきことを考えるべきだというように解釈すべきなのである。
そういう風な高さも深さも奥行きも幅もある感じで、なんなら飛び道具も加えて、不真面目にハウスメーカーの社員が世のため人のために動いていたら、今日の体たらくはなかったはずで、戦後からの二十年程の大貢献はやるべきことをやったという意味で、評価されるべきだが、一仕事終えた後にはもう引くべきだったのだが、日本の世帯数よりも住宅の数が多くなったり、さらには人口が減り始めたりしている今日において、オワコン発の日本の住宅生産というのは、日本人の生活向上には寄与せず、むしろ阻害要因になってさえいる、というのが実態で、日本の生活者にとっての住宅不況ならぬ住宅不幸なのだとここで言っておきたい。
産業ではなく生活なんだよね、のひとことで、分かり易く要点を伝えているのだけど、一方では、今まで作り上げた住宅生産構造を利用して、各地域に適合する住宅を考えていこう、とか考えている偉い人がいるらしいけれど、役割を終えた住宅生産業というのが残念ながら日本の風景を台無しにしているのであるから、それを仕方なく使うというのではなく、より生活者の視点に立ったものから、建築主施主の立場の方から、住まいの造り方を考えていく、材料供給を考えていくというのが、基本路線で間違いないのである。
住宅の造り方がわからないというのは、よくよく考えれば、生き物としてマズいのであって、農協から買う苗のように一代で終わるような仕組みだったり、ウーマンリブ運動のお陰で子供の教育をしなくなったように、その同じ方向性を踏襲して、住宅の造り方がわからない、というのはまずいのである。簡単でいいので、つまりは、私がいつも言っているように納屋程度で十分なので、住宅の造り方というのをせめて中学生くらいの段階で身に付けておくというのが、これからの時代には大事なような気がする。そんなに原則論ばかり言ってもこの複雑な現代でそれはないでしょう、という意見もあるだろうが、急がば回れであり、原則が大事で原則から出発するべきである。国民の生活が第一である。あたりまえである。

倉敷市庁舎駐車場屋上)