戦後の住宅生産構造の罪は大きい

100円払っても実際の住宅に使われるのは、40円とか50円くらいのメーカー住宅が今日も売れている。消費税が増税されるとか、そんな外的要因にプッシュされて、サインしてハンコを押す人が止まないということらしい。大繁盛だ。消費増税されるとか・されないとかに寄って、買う時期が変わるだけで、買える人は買えるし、買えない人は買えない。世間ではそういう風に見られている。借金できる甲斐性があるというだけで立派な一人前と言うことらしい。

でも、ちょっとまってくれ。鳩の手品並に分かり易い仕掛けにもかかわらず、どうして、50円の家に満足できるのだろうか。メーカー本社の寿き退職目当てで就職しているお姉さんの給与や、妊娠9ヶ月ですか、と声を掛けそうになる、もうどうしようもなくお腹が出ていて、頭の髪の毛も薄くなっている窓際族のおじさんの給与のために、あなたの残りの50円は使われる。住宅展示場にも、過度なテレビCMにも使われる。そういう風にして完成した住宅は、「死ぬまでローン」を抱えたにもかかわらず、なんだか、貧相で、10年くらい経つと劣化したプラスティックが痛々しく感じる住宅になっている。

もちろん、本社の企画はちゃんと働いているし、技術や設計の人たちはきちんと働いてる。でも、総体として、本当にそのような仕組みがいるのかと言うと、実際のところは、そうでもない。住宅というのは、そんなに高度なものではなく、低い技術が重なりあって、多重に支えあって、いろいろなリスクから人間を守っている。いってみれば、低技術の総体だといえる。20万円のキッチンだからといって、がっかりしてはならない。50年前からいえば、超上流階級の生活だし、そもそも、キッチンが良くなったからといって、出てくる料理がおいしくなるわけではない。

では、近所の工務店に頼めば言いということになる。でも、住宅メーカーと建材メーカー・住宅設備メーカー、そして、税制がバックアップして、作り上げた戦後の住宅生産構造というのは、そういう工務店にも影響を及ぼし、メーカーが開発して、それが、汎用化・一般化されて行った建材が、建材屋に並ぶと言う、メーカ発工務店行きの材料が、10年毎にがらりがらりと変わって行って、近所の工務店が作ったにもかかわらず、なんとかハウスが造った家に似て来るという奇妙な現象が起こって来る。人はこれを、流行、とよぶが、インフルエンザでもあるまいし、そんなもの矢鱈と流行ってもらっては困る。

戦後の住宅生産構造は、まじめな日本人の住宅を年々貧しくしている。近頃では、住宅そのものでアピールするところが無くなって来たので、人工衛星に付けるパネルを屋根に取り付けて、電気を少しばかり発電して、お得ですよ。ということをアピールしてきた。付けている人は、国と電力会社に寄って、あなたのパネルの価値が左右されるということを胆に銘じた方がいい。そんなこんなで、アルミサッシの二重ガラスが標準化した現在、住宅に求められるのは、「自然な材料」ということらしい。潜水艦でもあるまいし、気密性が高まりすぎた住宅は、機械的に排気させてあげないといけないのに、中だけ「自然材料」とか「呼吸できる材料」とか、聞いてあきれる。そういう住宅は、今までの考え方の延長であって、同じカタチだけど材料を替えただけに過ぎないじゃないかと、ヤマグチの一突きで息の根が止められるのである。

ポイントは、戦後の住宅生産構造から外れたところで、自分自身の戦いを始めることである。中古ベンツが30万円で買える時代である。車の方が遥かに精密な作りをしている。住宅がなんでそんなに高いのか、少し疑ってみてもいい。持てるお金は人によって限界がある。その限界の中でのお金の使い方をも指南するというそんな設計屋があってもいい。先日は、岡山の街中から、お客さんを助手席に乗せて、牛窓までドライブをした。日頃の生活や、休日の過ごし方、住宅ローンの借り方なんかの話をした。車を家の中に入れてもいい、というので、車は排気ガスが出るので、ちゃんと仕切りましょうね、と当たり前のことを話したかと思うと、その方の住宅遍歴とその都度の昔話など、時には爆笑しながら、二人で走った。これで相手が女性なら完全にデートである。また、デートをしたいものである。