畳の再評価 ------ 畳屋よ、値上げするべし。

自分は不当に扱われているのではないか。そんな風に感じるとき、人は立腹し、歯を食いしばる。声をあげ、また時には手を上げる。同じように、畳は不当に扱われているのではないか。身分相応の扱いを受けていないのではないか。畳はきっと怒っている。今回はそんなお話。
仕事柄、古い住宅に接することが多い、でも、とっても古い家、そう、ごくたまにある、江戸時代なんかの家に接するとき、畳のない部屋に当たることがある。そういう部屋は、「客間」ではなく、100%「茶の間」であり「居間」である。知っている人は知っているが、「畳が敷き詰められた部屋」というのは、「板の間」よりも、より新しい装置であった。最初は、使いたいところにだけ、「畳」が用意され、上等の身分の者だけが「畳」を使っていた。それ以外の人は、板の上に「筵・むしろ」をしいていたし、「筵」さえ敷かないことも多かった。畳が生まれた頃は、客間のある一角に二枚あるいは四枚という、数で敷き詰められ、さしずめ巨大な絨緞、あるいは座布団の親玉という位置付けだった。扱いも丁重であって、きっと、きらびやかな畳縁を付けてもらっていたに違いない。

(写真;250年前の豊橋市二川の商家「駒屋」の玄関土間。左奥に板の間が見える。)
それが、どうだろう、最初はきれいな板の上に敷かれていた畳だったが、今日のように常時、畳を敷くことが前提になって来ると、(畳を外してその部屋を利用することはないので)下地の板の質も悪くなり、現在では「荒板・あらいた」などと呼ばれる、見栄えを気にしない、荒削りの板を使うことになっている。また、値段で考えると、無垢の板を張りつめた部屋よりも、値段が安いにも関わらず、その安いはずの畳を使う部屋が一つもない、という住宅も多い。「安いが一番!」という、現在の消費行動から考えたら、畳の部屋よりも高い無垢板フローリングの部屋を選ぶ必要はなかろう。選ぶのであれば、畳よりも安いカーペットだったり、クッションフロアだったりすればいい。
では、あなたはどうなのだ!と言われるかもしれない。実は、畳は困った存在だと私は思っている。畳を使うと、タダでさえ、質の悪い木がより強調されてしまうからだ。私の家は(モルタルの)土間にしているが、それは、あえて土足生活にすることによって、木に対する感度を鈍くさせようという意図があるからだ。土間、板の間、畳の間と進むに従って、人は、木に対する感度が上がって来る。畳などを使ってしまうと、ひとっ飛びに「和の空間」になってしまうので、木に対しても「和」の質を求めてしまうのである(参照;「ドソクの素材感」「作品案内」)。それでは、こまる。伝統民家を設計理念のベースに据えている身ではあるけれど、民家をベースに新しい息吹を吹き込まなくてはならない私としては、申し訳ないが、畳というのは、避けてとおりたいアイテムだ。
理由はどうあれ、現在、畳を使う家は少なくなっている。では、いっそのこと、その希少性を逆手に取り、あえて、値段を高くしてはどうだろうか。仮に高くても、畳を使う人は使い続けるだろうし、使わない人はずっと使わない。希少なのだから、高くて当たり前だ、使いたい人は使えばいい。俺たちは畳屋様だ。最近の扱いはヒドいじゃないか。昔は貴族の敷物だったんだぞ。畳縁は隠れたオシャレなんだぞ。い草は気持ちいいんだぞ。板なんか寝転べないだろう。
............こういったことを、先週、日本畳業組合全国連合会の懸賞論文に応募してみた。マジな話だ。文章の書き方の轍である「起承転結」にしているし、畳屋を持ち上げた内容なので、きっと採用されて、「佳作」等の中庸な評価を受け、人目に触れない機関誌にて報告されるんだろうと思う。「最優秀賞」は審査委員長自身である藤森照信さんに決まっている。くそ、歯がゆいな。*1

*1:この最後の段落は、架空の話です