これが教会堂の基本形だ

前回の記事では、過去20年間を振り返ったので、最近山口晋作を知った人には、簡単な自己紹介になったかもしれない。それで、わざと書き残した教会堂のことについて、今回は触れることにする。たまに書いておかないと、専門であることを世間から忘れられそうだからだ。
まずは、聖書をひも解こう。
マタイの福音書 13章1節ー2節 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。(聖書刊行会、新改約聖書)
ここでは、最初は砂浜に座っていたイエスが、群衆が押し寄せたために、自らは船に乗って、湖の上から浜に向かって話をしたことが描写されている。教会堂というと、ロマネスク=ゴシック=ルネサンス、といった西ヨーロッパの輝かしい教会堂の数々を思い浮かべるのだが、そういったものは、当時の権力とお金、政治と文化が成し得たことであって、教会堂の素型のようなものを考える時には、逆に邪魔になるような存在だ。
話す人と聞く人、という関係に置いて、このマタイ伝13章冒頭の記事は、興味深いし、ここに、私などは教会堂の素型を求めるのである。言い換えれば、神に向かって人々が賛美歌を歌い、聖書を開いて説教者がそれを解き明かす「礼拝堂」という場所を中心に、教会堂は考えられるべきだ、ということだ。建築学より礼拝学から入るべき、ということだ。そんなの当たり前だと言われるかもしれないが、大事だと思っておきながら、案外軽く扱ってしまうことが多い。大きな部屋に椅子が並んでいればいい、というところまで最後は落ち込んでしまうことがおおいのだ。教会堂を考えている教会は、自らの礼拝を再考するところから、始めて欲しい。
未だ仕事で礼拝堂を作ったことはないが、いつかそのときに備えて、「自主練」をしていることも、この際だから告白しておこう。あれは結構楽しい。

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(上の写真;2001年11月25日クリスチャン新聞第五面の写真)