建物は土地ではない

当たり前である。
でも、日本においては、それが、どっこい。そうでもない。

建築に限らず、なんだか、自分の住んでる世界と違うように、感じる時には、「とても基本的なこと」が分かっていない場合が多い。「でも、お高いんでしょう?!」と、感じるときが、それだ。

日本では土地が狭いので、「少しでも広い家」というのは、「いい家」という、図式が成り立ってしまう。つまり、これ、「建物は土地である」という、考えに基づいた感覚だ。
さらに、戦後の住宅生産構造の産物である、「総二階+外壁サイディング+緩い屋根+内壁クロス+ほぼすべて規格品」という、ミサワ、セキスイ、大和、あんど、そーおん。などの住宅において、高い家(←あ、ホンネ、でたw)、いや「いい家」というのは、ベースグレードに、ちょっと耐久性のある材料を使い、「デコラティブな装飾+防犯+断熱ばっちり+構造バッチリ+電化住宅+(そして最近は)太陽光発電」というものが加わったものだ。これで、彼らの上級住宅は出来上がりだ(簡単だ、ちょろいw)。
それは、一つの方向に単純に引き延ばしたものであり、また、それはちょうど、土地の条件がよい時のようだ。南向き、風通しよし!、駅の近く、買い物便利、近所に変な人イナイ、も加えてもいい。こういうのは、「建物は土地である」、の同類だ。

かつて、壁が合板仕上げしかできない物件の依頼をうけたとき、「キャミソール問題」で語ったように、素材そのままを素直に表しつつ、中心にドン!と据えるカウンターバーを、鎮座してみたが、狭くて、あんなに条件の悪い不整形な平面で、ほんのウン十万円!でカウンターをつくれ!という課題に、真っ向勝負を挑んだ時に、この回答を寄せるのが、「建物は土地ではない」ことを、実証している良い事例だ。

「とても基本的なこと」、それは、空間の「質」のついての視点/評価が、欠けていることだ。お財布から支払う工事代金が増えることが、イコール、「良い家」ではない。高い買い物が「良い家」ではない。それは成金趣味であり、魅力的には見えない。
粗末な材料で、長屋しか建てれない、そんな予算の中で、身の丈に合った自分自身の生活を楽しむ家、長年住んでも色あせず、むしろ、ジーンズのように色あせても魅力的に見える家、毎日が楽しく、旅行先のちょっと高い宿に泊まっても、「自分の家の方がいい」と感じられる家、そんな家が、作れるんだ、そういう地点にたったとき、君は、「建物は土地でない」ということを、自分のものにしていると思う。