藤森照信先生の門出を祝う。

(専門家は、下の「■」から読んで結構です)
先日、呼ばれもしないのに、藤森さんの退官記念講演・懇親会に行って来ました。その昔、今から15年ほど前、初めての本格的建築書として岩波新書の『日本の近代建築』を手にして以来、何かに付けて刺激を受けて来た藤森先生。確かに東大での仕事は終えられましたが、新たな舞台での活躍を祝福する気持ちで、参加させていただきました。
先生の業績を僕なりに大別すると、研究面では、1)明治初期の官庁集中計画などについての博士論文(岩波『明治の東京計画』1982)、2)岩波新書『日本の近代建築(上・下)』1993、3)新建築社『丹下健三』2002となり、研究周辺としては、1)路上観察学会の活動、2)建築探偵シリーズの刊行。また、建築家としての実作多数(タンポポハウス、高過庵ほか)と理論の展開(ちくまプリマー新書『人類と建築の歴史』2005、ちくま新書『建築史的モンダイ』2008など)などが挙げられます。かなり広範囲の活動をされておられ、世間一般に対しての浸透も他の建築研究者から抜きん出ているので、藤森照信さんの名前は知らなくても、建物の写真を見れば、ああ、見たことある。あのひとか、と気づく人も多いです。
さて、その講演会は、東大教授としての最後の講演という趣旨に則り、上記の研究面のうちの2)岩波新書『日本の近代建築』(1993)に関することが主な内容でした。建築家としての活動については昨年秋に東大の修士学生を相手に四回シリーズで最終講義をしており、こちらは書籍化されるようです。
まずは研究事始め。先生が近代建築の研究を始めた頃は、主立った研究が既に一段落を終えており、新しい報告のようなものは、ほとんどなかった状況だったそうです。先生曰く「もうこれ以上何をすればいいのか、わからない状態。暗い感じ」すなわち、数少ない有名建築についての調査がされていただけで、準有名建築や木造以外の同時代の建築については、何もデータがない状態だったそうです。そこで、それら木造以外の近代建築のデータ作りというか、建築の戸籍帳簿を作ることには意義がある。それをふまえて、新しい歴史書を書こう!というところから、研究の方向性が決まって行ったそうです。その志は固く、10年きっかりで、日本全国の正にすべての近代建築を収録した『日本近代建築総覧』(技法堂1983)を刊行され、その10年後に『日本の近代建築』(岩波新書、1993)が刊行されます。
先生の研究姿勢は先生の師であられる村松貞次郎先生に当然ながら影響されていて、建物を構成している技術の違いを元に、近代期(明治初年から戦前まで)の新しい建築歴史書を書かれたのです。言ってみれば技術の似た者同士、親類同士を、現場で確認して、持主に資料を頂いて、お話も聞いて、図面も書いて、写真も撮って、、、という作業を延々続けて行って、時には日本国外の関係する建物も調査に出かけて行って、確証を得た上で、明治のお雇い外国人の時代から、戦前までの数幾多の建築群をまとめ、一瞥できるような系統図を作ったのでした。
この系統図については、講演の中でご本人も「19世紀的」と言われていましたが、たしかに、歴史理論としては真新しいものではなく、先生の言う「ダーウィン的」というよりも(ダーウィン理論の根幹は、自然選択(自然淘汰)によって、進化した、という説なので)、遺伝の相関関係図的というか、家系図みたいなものでしかありませんでした。
また、講演最後部には、建築の始まりとは何だろうか、という最近の先生の興味に重なる観点からの言及があり、それはハイデガーが(技術論の中で)言っている「立たせる力」によるものではないか。具体的には、転がっている大きな石を天に向かって、スックと建てる行為が建築の始まりではないか、と言って、イギリスのスタンディングストーンの写真を見せて、イサムノグチエナジーボイドも見せて、さらに高松市庵治にあるノグチの墓の写真も見せて、きっとノグチも同じことを考えていたに違いない。と締めくくっていました。
講演会後の懇親会は、お金がいるものと思って、大学の先輩の砂本さんとともにお財布を用意していたら、なんと無料ということで、先生のお心使いに感謝しました。しかも帰りには引き出物として、中谷礼仁先生主宰のアセテート『グラウンド・ツアー』五冊セットが頂けるなど、最後までサービス精神旺盛で大盤振る舞いの最後の舞台でありました。私としてはただの一般人なのに、という思いもあり、ただただありがとうございました。というばかりでした。なお、先生は、この春から工学院大学に籍を移して、引き続き建築史家・建築家としての働きを続けるそうです。
■さて、本題です。はい、ここからです笑。今回は長いです。専門家はここだけ読んで結構です。
藤森先生が近代建築総覧を調査隊長としてまとめたのは、それはそれは多大な労力が要ったことでしたが、扱う対象が複雑で多地域に渡っているなどの建築特有の性格上困難な状況が予想されるものの、他分野から見れば、「今あるものを調べただけでしょ」といわれることかもしれませんし、分類したことについても、「似た者同士を分類しただけでしょ」と言われかねません。ダーウィン理解についても上述したように誤解がありますし、ハイデガー理解についても、疑問があります。ハイデガーは、第二次大戦後の混乱したヨーロッパを生きる中で、自然を統べ治める統治者としての人間が、自然から事物を徴収し、確保し、支配下に置いて、ついには、自然界にはない姿のものをも作り出していることを批判している文脈で、そのようなもはや人間自身が制御することすらできなくなった、自然エネルギーを手許に「立て上げる」力は、よくないものだ。という言い方をしています(こんなこと知っていたわけではありません。今回調べて知りました。はい、正直です)。藤森先生は、中沢新一さんと交流があるので、中沢さんの『緑の資本論』などに影響されてのことでしょうが、ハイデガーの言わんとしていることとは、ちょっとズレています。
ここで、藤森先生を心の師と(勝手に)仰ぐ僕の心は揺れます。そんなわけはない、先生は偉大な業績を残されたのだ。では先生の偉大さはどこにあるのか。それは、自身の建築作品を語る先生の語り口にヒントがあります。先生は「平面に興味はない、見た目だけに興味がある。」といろんなところで語っています。同じ一人の人間ですから、建築史家としても同様のはずです。すなわち、こうです。

「歴史理論(平面)」については、あまり興味がない。悉皆調査を経た上で事実に基づいた「描写(仕上げ)」をすることに、興味があるのだ。

先生の真価が発揮されるのは、描写の妙であり、仕上げの妙です。明治の東京をどのように個人が作っていったのかを、生き生きと描くのに興味があり、どうやってモルタルに土を混ぜて、生きた本物の土っぽく見せるかに興味があるのです。このように、重ねて述べるとわかりやすい。先生は、古い建物を眺めながら、技術史的視点をきちんと押さえて、どのように作られたかを完全に理解した上で、物理的仕上げを思うと同時に、物語的仕上げを構想していたのです。先生はこの方法で日本全国の建物を見て回って、最近は世界の興味ある建物を見て回って人類と建築を描写し、さらには、大建築家であった故丹下健三氏にインタビューする中で、コルビュジェの影響を発見していったのでした。路上観察学会の活動や、建築探偵シリーズなどは、描写の妙そのものでしょう。最近は多数の建築作品を発表され、様々な仕上げを試す中で、牛窓で学んだという「焼き杉板」も好んで使っています。
いや、こう批判的にとらえるよりも、あとに続く研究者へのハナムケとして、私の時代はこうだった。こんな感じでここまでイケルのだ、明るく行こう!君たちも痕を埋めて頑張ってくれ。という、どこまでもサービス精神旺盛な藤森先生のお心遣いだったんだ、と素直に思った方がいいのかもしれません。前にも言いましたが、藤森先生には、あと30年くらい、第一線でのご活躍を祈念しております。今後とも、どうぞご活躍ください。
僕も頑張ります。