もう一人の祖父は,左官の親方

母の父には会ったことはないが,左官の親方だったということは知っている。児島上村(上ノ町)天王地区の大西左官。対岸の香川県観音寺市の郊外の生まれで,若くして児島に移り,借家で暮らしながら,亀山左官で丁稚奉公をして,独立。早島生まれの妻トメとの間に三男一女をもうけた。戦争を経て,広い土地を購入して,弟子を数人抱えながら,61歳で死ぬまで鏝を握り続ける。児島の建築関係者に僕の履歴を話すと,ウチで左官仕事をしてくれてたよという工務店の社長や,祖父に習った左官の息子に会ったりする。祖父の息子は上から,左官,土方,左官。娘は東京で洋裁を学んだあと,なぜか漁師の妻になる。
今日,母の幼なじみが我が家にやって来て,母とは違った風に祖父のことを教えてくれた。地域の人に慕われて,多くの人が出入りする家だった。家の前の坂を「大西の坂」と呼ぶほどに。ほかにも,カユくなるような褒め台詞を聞いたが,聞いてるだけで相づちに困るような甘い言葉だったので,コーヒーで薄めながら聞いていた。だからここには書けない。
だから僕が建築をしているとか,左官仕事に一言あるとか,そういうわけではない,関係ないのだ。近代教育というのが有効なのは,高校までのような気がする。そもそも僕が高専に行った理由というのは,そんなに勉強なんかする必要ないと思ったからで,結果は違うが今でもそう思っている。近所のこどもたちがみんな高卒で職に就けば,その地域の活力というのはそれだけでアップするような気がする。みんなが世界レベルの知識を知る必要もないし,若いときにそれだけの興味を持って受け取れるのは,旧帝大に行ってる人でも,(今となっては)数割のはずだ。西洋式に系統立てられた学問を学ばされるのではなくて,お米の作り方や畑仕事のこと,服の作り方や,住宅の作り方のことを自分が主人公になって一通りやらせてもらえる学校というのはないんだろうか。
セルフビルドをやりたい人がいるとして,その人に僕が教えられるのは,実際にその人が汗を流して,家を造る方法ではなくて,大工,左官,建具屋などの職人に,自分のしてほしいことを彼らに伝える技術だ。少し考えれば分かるけど,お金もないので,自分で漆喰を塗りたいという人がたまにいるが,段取りもわからないし,道具もないしで,どうせできっこない,できても途方もない時間がかかった割には,出来上がりはよくない。同じ時間を自らの仕事に専念していた方がよっぽど効率がいい。残るのは単なる自己満足だ。安易なセルフビルドを僕は勧めない。モンダイは,今の多くの人が,リアリティを持って,農業,縫製業,建築業,いわゆる衣食住をつかさどる職人たちと会話する言葉を持たないことだ。自分に引き寄せれば,建築デザイン業をすることも必要だが,こういう文脈でいうと,家の作り方を教える寺子屋のような,塾のようなことをするのも意味があるかもしれない。江戸期に山口家は私塾をしていたから,そんな気にもなる。きっとかつての学校というのは,自分の父親がしている仕事以外の,より広い仕事の空気を吸えるようなそんな環境だったはずである。だから本当の「研究者」なんて存在は,日本で千人くらいで十分だと思う。あとは職業訓練校の先生である。
いや,祖父の話。左官は大工よりも地味な仕事で人気がない。大工はいろんな道具を買えばなんとか形になりそうだが,左官は手の延長の平べったい板があるだけで,それをひたすら身体と一体になるまで握り続けるだけ。平に塗れるようになるには,5年はかかる。地味である。鏝を握り続けて五十年,祖父喜代治は,晩年には,野崎家住宅の仕事もしていたという。国の重文にもなった住宅だから,左官棟梁としては,やりがいがあったろう。