先人の知恵、生活の知恵;高知県の例

高知県の住宅というのは、特に台風を意識してつくったものが多い。わが町児島では、そもそも台風が直撃することも少なく、あまりよく実感が涌かないが、沖縄や高知、そして伊勢・尾鷲などでは、長い時間継続して吹く風によって、外壁に突き刺さるように強い雨が当たることが多い。

そこで、先人たちは、通常窓の上に付ける様な庇を、壁に並べた。こうすることによって、壁に打ち付けた雨が壁を伝うことなく、壁から離れて、地面に落ちるようになる。ほんの少し、壁から十数センチ出ているだけだが、これだけでずいぶんと違う。ほかにも、三角屋根の下に外壁よりも大きく出た位置で壁をつくる「妻覆い」(三角屋根の部分を「妻」といいます)や、出来るだけ大きい屋根をつくることで、外壁を守ろうとしている例もよく見られます。

写真は事務所の西側の壁ですが、台風が少ない地域ですが、オーバースペックは承知で、実験的に付けてみた例です。おまけに、軒先から板を下げて、横から外壁に当たる雨を防いでいます。写真からは切れていますが、「妻覆い」も付けているのがわかるでしょうか。

脱産業的住宅の例;モルタル下地のペンキ塗り(その2)

前回のつづきである。

私のブログというのは、その昔、mixiの個人日記からはじまって、公開した方がいいとの親友の勧めのままに、なんとかというブログで始めて、今に至るのだけれど、mixiのころからだけど、写真はほとんどなく、文章ばっかりで、いかにも読む人のことを考えていない感じのブログになっている。どこかに行ったとか、最近の近況とか、そういう物はもちろん、こんな仕事しているよ、とかいうのも、ほとんどない感じで、自分と同じくらいの専門性を持つ読者がいて、その人に向かって黙々と書いている感じで、その人に読まれると恥ずかしいという様なことは出来るだけ書きたくないという、そんな偏屈な感じです。
で、前回と今回は、今まで長い間、脱産業が大事だ、とか言って来た経緯を踏まえて、実際にはどんな感じで建物が出来ているのか、というのを、すこし丁寧に提示しようというものです(いや、正直言えば、体調がすぐれず、楽をしているのです)。「すこし丁寧に」というのは、もしも私だったら、興味があることはどんどん検索するし、わからない言葉も調べるし、なんだったら本人に聞いてみる、ということをするのですが、そんなことをするのは、数パーセントでしょうから(体調がすぐれず、楽をしたいというのが、本音なのですが)、その他大勢のかたのためにも、写真くらいはシェアしないとねー、という感じです。

前回は、浴室という衛生上の必要も求められる部屋でしたが、今回は、そうではなく、いろいろな状況の中の「モルタル下地のペンキ塗り」のものですが、総じていえば、これも前に書いたので、懸命な読者はまた書くのかよと思うでしょうが、そうではない方向けの回ですので書きますが、このタイプの方法というのは、日本の民家の様な、無骨で荒々しい表情を持つ室内に、何らかの特徴のあるモノをおきたい時にはウッテツケの方法で、古民家の中に、色の付いたシックイや、奇麗なモザイクタイルを貼るという、古民家再生工房の先輩たちがやって来た方法の系譜になりますが、それをもっと、カジュアルにした物で、おのずと、施工代金も安くなるというもので、貧乏路線まっしぐらな私の作風に相応しいアイテムであります。
また、古民家ではなくて、新築の場合に、ヤマグチ流「荒削りの木材」テクスチャーとの相性もよく、古民家でないと醸し出せない様な、ある一定の懐の深さの様な物が、「荒削りの木材」あんど「モルタル下地のペンキ塗り」というセットを使うことで、新築住宅の際にも擬似的に造りだせるというもので、ディズニーランド程の質の高さは得られませんが、個人住宅の内装としては、しかも、ローコスト住宅の内装としては、使い易い手法で、私が初期の頃から採用している物ですが、「土間の家」と共に、このまま、どこまででも追求してみようと思う手法の一つです。


ウイットもなく、偉い建築家も登場せず、国際政治状況も無視して、しかも、クルマの話題もなく、私としては、手足を縛られた感じでの投稿ですが、手の内を明かさなくてもいいじゃないかとの、もう一人の私が言っていますが、真似をしたければ真似をすればいいと思いますので、今日はこのあたりで、お開きにしたいと思います。良い子のみんなは、日が変わる前に寝た方が良いというのを最近学んだヤマグチでした。

脱産業的住宅の例;モルタル下地のペンキ塗り

建築ブログなんだから文字だけではつまならい、しかも建築の話じゃあないし。との至極当然のお言葉を友人から頂き、日頃はそういう言葉も無視する様な無頓着な私ですが、徹夜明けで宴もこなしてしまって疲れ切っている今日の私はそのリクエストに抗う力もなく、写真を掲載することにしました。

モルタル下地のペンキ塗りの浴室」というものですが、これを考えた30才の頃に、「脱産業」なんていう考えを持っていたわけではなく、当時は肌感覚で結果として何となくここに行き着いただけですが、後付けでもいいので、つじつまの合う説明が出来るのかどうかが大事で、それでなるほどー、と思ってくれればいいのである。
その昔に告白して振られた相手に、時間が経った後もう一度アタックしてみて、めでたく交際が始まったというのが、今回の例であり、モルタルの上にペンキを塗った壁のお風呂というのは、ある一時期の庶民住宅では当たり前の方法だったのに、今ではタイル貼りの風呂を通り越して、ユニットバス全盛であり、「え!?モルタルにペンキ?なんですかそれ?」と言われかねないご時世ではありますが、昔途絶えた技術をその枝分かれした地点にまで戻って今の方法で再現してみたら、どうしたこれがなかなかいけるじゃあないか、という例であり、モルタルもペンキもそれぞれ時間が経過して質も作業性も耐久性も高まり、ユニットバスの継ぎ目のカビ発生に頭を悩ましている奥様方には、継ぎ目の全くないモルタルペンキ壁の浴室というのは、ナウでヤングな方法である。
家庭用ビデオの方式でベータかVHSかというのと同じで、トロンOSかMS-DOSかというのと同じで、技術の転換期には政治力も加わりつつ、敗者と勝者が生まれるわけだが、トロンOS開発者17名が搭乗していた123便アメリカの軍事力の前に撃墜されたというのは本当なのかどうかということは横においておいて、この「モルタル下地のペンキ塗り」という方法は、一度は敗北したが、地方都市の私に見初められもう一度ラインナップに乗って来たのであり、またそれは無味乾燥で味気のない室内になりがちな日本の民家において、僅かながらも花を添える存在であり、メンテ費用のかからないのが塗装工事の強みなのだから、五年に一度くらいの頻度でペンキを上塗りするくらいの感覚で、何なら色も変えてみて今後もお付き合いするつもりである。
こういった感覚は、古い民家をさぞ大事そうに崇め奉る感覚からは生まれず、どうやったら、現代住宅に生かせるだろうかと、昨日私がしたように寝ずの番で夜な夜な考える感覚であり、個人で言えば、真面目一徹ではなく笑いのある状態であり、「ユニットバス」という産業生産物を選ばずとも、モルタルペンキの浴室というものが、選択肢の一つに加わったということで、ユニットバス屋は私のお陰で仕事上がったりである。
できれば、その昔に告白して振られた相手に、時間が経った後、今度は相手の方からアタックされ、めでたく交際が始まっていくというケースが理想だが、私がそうだったわけだが、そこまでひとっ飛びに進めない場合でもまだまだ希望はあり、氷河期世代ゆとり世代を見ていると、彼らはハナから豊かな生活を知らず、質素倹約が家訓のように生きているので、産業界に貢献できる「消費者」としてではなく、単なる「生活者」として、日々を淡々と生きていくのであり、その様なお金を使わず物を所持しない彼らの普通の生活は、脱産業路線をじわじわと静かに押し進め、産業界の指導者たちが思い描く産業立国とはズレており、気付いてみると我々の勝利である。
「住まいは性能です」というのは、何処かの住宅メーカーのキャッチだったと思うが、産業から生まれた物が最高の住まいだなどというのは、心と身体が離れている様な人間であり、そんな物は人間ではなく、動いていればそれでいいのかー!と叫びたくなる様なバカバカしさであり、体操選手のようにとは行かずとも、自由に身体を動かせる心があってこそ、本来の人間である。
最後まで書いて、やっと思い出したのけれど、この話題に似たことを過去に書いており、おヒマな方はこちらもごらんください、という感じで、日頃は二時くらいまでが通常運転の我が社でありますが、今日はこの辺でバタンキュである。

脱産業とは、脱サラのことである。

このブログはだいたい建築のことを話すのだけど、だいたい他のことも同時に話していて、今日はその「他のこと」が中心みたいな回です。
産業ではなく生活だ。住宅というのは「産業」が誕生する以前からあったものだから、生活を前提にした住宅、生活の積み重ねでその姿が規定されていく様な住宅というのが、本来的だ。ということを、再三言っているのだけれど、では、産業が始まって以降の世界というのは、どんな世界なんだろうか、というのが、私の目下の興味で、1975年に生まれた身としては、想像でしか分からないんだけれど、想像のまま、書き連ねてみることにした。
私が生まれる200年程前(ちょっと昔すぎて、すんません)、1700年代の後半からイギリスを中心にして始まった産業革命時代は、大量生産したものを買わせる消費者がいなければ成立しない時代なのだが、それまでの支配者が農業漁業林業などをしている民を単なる労働力の塊という貧しい群衆としてしか見ていなかったところを、これらの人々にお金を与えて、品物を買わせるという、つまりは、消費者に仕立て上げていくということをしないと、産業は発達しない時代に入っていったわけで、ここにいたり、現代日本派遣労働者のごとく、極限まで搾取されていた貧農・農奴・貧乏人たちが、「消費者」や「中産階級」に引き上げられていくという、一大変化が起こったのだった。
人々を貧民から工業労働者に転職させた上で、賃金を払って消費をさせ、工業製品(産業による品物)を買わせるという経済循環の構図を世界に拡大し、儲けを世界的に増やすのが、資本家の目標となったわけで、この産業革命時代は扱うものは変わったけれども、現代も継続している時代であり、橋本治先生によると、日本の場合、近代というのは戦後のことだから、この60年程のあいだ、産業革命時代は日本全国津々浦々で続いているということになる。
彼ら労働者・消費者は、時間と身体を明け渡す代わりに、雇い主から金銭を受け取るという生活を開始し、それまで、天気と自分の体調を気にして仕事をしていた生活から、天気は関係なく、自分の体調ではなく隊長である上司の天気ならぬ気分を気にするようになり、ただし、時間無制限な仕事の仕方ではなく、ある一定時間を過ぎると、大手を振って仕事場から離れていけるという生活に変わっていったのであり、こういうのが日本で本格化したのは、ほんの60年程であり、労働者の9割がサラリーマンという現代日本においては、夕方の新橋にいけば、大手を振っている労働者に会えるわけで、彼らにインタビューをしてみたら、「ヤマグチさん、我々は貧乏ヒマ無しが常でして、家にケエッたら、飯喰うて寝るだけですわ!え!?家に何を期待するか?ですって。うーーん、とりあえず、風呂と暖かい布団があればいいですわ。あんた、学生さんかい?真面目なんだねえ。」といわれるのがオチある。
一方、都会の喧噪がイヤになり、田舎で暮らしていこうと一念発起した若者は、地方都市でもなく更に田舎に入っていき、私のように脳内でいろいろと考えることが好きな種族なので、知恵を絞って、小さな会社を興して、それなりに地域に認められて、雇用が生まれるのだが、雇用が生まれることで役所を含めた地域社会から認められマスコミからも注目され時代の最先端とか言われて、鼻高々になるのだが、その後数年経った時点での新規雇用者というのは、立ち上げ当初の仲間の様な情熱は持っておらず、夕方になると、地元の娘との間に生まれた子供の面倒を見るために、これまた大手を振って帰っていくのだから、田舎で地場産業をしているから、現代社会とは違った生き方をしているというわけではなく、おそらく当の新入社員はもらったサラリーの三割くらいが、その田舎ではなく通販と近所の大型ショッピングセンターで消費されるのであり、都会の喧噪がイヤになり脱サラしたはいいが、これまた、田舎でスケールが小さいが従業員に同じことをさせている事に気付くと言う、悪循環になり、産業革命時代の性に気付かされるのである。

本来的な意味での「脱サラ」というのは、産業革命時代の外で生きるということであり、自分の暮らしを自分でハンドリングして、仮に従業員を抱える様なことがあっても、それは短期間で止めておき、私が工務店やいろんな職人に仕事をしてもらう様な感じで、お金の流れはキレイに分離して、お金を支払ってくれる人から、各人が直接お金を受け取るようにするのがいいのであり、各人が生きることの責任を十二分に自分自身に課せる様な状態が理想であり、たまたま児島という地域が岡山県内一の個人事業主を抱える地域だからかもしれないが、別に誰かに雇用されなくても、普通に生活できるのであり、雇用されるということに安定を求めるのは、間違いであり、会社に就職することで人生安泰などというのは、おお間違いであり、むしろ、ワンパクでもいい、逞しく育って欲しいの理念で、世を渡るのが、ナウでヤングな人の生き方だと思う。

私は16歳の頃からトムクルーズとは違う方の教会に通っているが、ありがたいことにそこでは色んな立場の方に出会うことによって、多様な社会を見聞きすることができ、自分は体験していないけれども、少し話しをするだけで、経験を共有できて、いい感じだが、だいたいにおいて、信者は皆、独立心旺盛な感じで、そのためか牧師はたじたじであり、これが小銭持ちの王国・児島か、という感じである。

ところで我が長男は8歳なんだけど、そろそろ中学のことを親としては勝手に案じる時期なんだが、今流行の中高一貫という制度は、5教科以外の教科を可能な限り時間を取らないようにして、可能な限り効率よく大学受験をさせるという仕組みなのであり、「生活」をキーワードにして説明すると、「生活」に近い、5教科以外の体育美術道徳倫理音楽を出来るだけ授業で扱わないようにするのが、中高一貫システムであるので、今までこの駄文で書いてきた延長から行くと、私は長男に対して中高一貫の学校に行っては行けない、という指導をするべきで、ワンパクでもいい、逞しく育って欲しい、と指導するべきである。

私の考え方/ヤマグチ建築デザインの思想

住まいというのは、キャッチコピーひとつで表現できる単純なものではなく、多様なニーズや条件によってつくられていくものであるので、結果として完成した建物の姿を見るだけでは不十分で、その素となる作る人の考え方というのが、その家を規定する最重要な要件だと私は考えています。以下はそういう意味での私の考え方をお伝えしています。

現代日本の住宅生産を取り巻く状況は、戦後の住宅難の時期に現れた「住宅メーカー」という日本独自の生産方式を中心にして今日まで展開しており、直接関係が無いように見える各地域に根差す工務店までもが、建築法規と各種材料供給、職人体制というルートを通して、産業化された「住宅メーカー」の影響を受けており、メーカー住宅及びその派生版住宅で世の中の住宅地は溢れているという状況です。戦後期に住宅難の一時期の急務を担ったという意味で、メーカー住宅の功績は評価されるべきでしょうが、緊急時の必要を終えて以降はその規模を縮小すべきだったと私は考えます。40年も昔(1973年)に住宅の数が世帯の数を上回り、2005年には人口減少元年を迎えているというのに、都市部が焼け野原で緊急時のための「安い材料で短時間に大量の住宅を造る」というこの住宅産業という代物は、豪華さは増したもののその基本思想は変えないまま、70年近くの現在も継続しています。
私が違和感を抱くのは、「住宅産業」という言葉にくっ付いている「産業」という言葉なのですが、そもそも、住宅というのは、人間生活の基本的必要であって、「衣食住」などと言われるように、「工業」や「産業」というものが、出現する以前からあるもので、家電やクルマなどのように工業化しないと世の中に出現し得ない代物と違い、住まいというのは、人がこの世界に生まれたそのときから、いつでも・常に・同時に・いやでも、「ある」わけであり、「産業」という言葉は、本来住宅に使うべき言葉では無いように考えているわけです。
住宅産業というのは、今日では産業としてのダイナミズムもすでに失われているので、「とにかくコストダウン」とか、「設備投資は必要最小限に切り詰めつつ、いかに経費を削るか」とかが、まずありきであって、そこには、「どんな生活を描きたいのか」という、本来の姿は薄れており、住宅産業をグルグル続け続けるというのが目的になるという、自己目的化というのがまかり通り、まかり通るのは、携わっている人も分断されて、各自の持ち場でやることをくそ真面目にやっているからで、総体として観察すれば、人間生活を横においた住宅産業界のための、日本の住まい、という逆転した状況になっているのであり、こんなに馬鹿げたことはないな、というくらい、ばかばかしい感じになっているのです。
一方、住宅の造り方が分かる現代人が少ないというのも、少し考えると奇妙なことで、生き物として考えてみても、住宅の造り方がわからないというのはマズいことであって、農協から買う苗のように一代で終わるような仕組みだったり、ウーマンリブ運動のお陰で子供の教育を家庭でしなくなったように、その同じ方向性を踏襲して、住宅の造り方がわからない、というのはマズいことだと考えています。簡単でいいので、つまりは、納屋程度で十分なので、住宅の造り方というのをせめて中学生くらいの段階で身に付けておくというのが、これからの時代には大事なような気がします。そんなに原則論ばかり言ってもこの複雑な現代でそれはないでしょう、という意見もあるでしょうが、急がば回れであり、原則が大事で原則から出発するべきです。

では、「産業」ではなく何かというと、やはりそれは「生活」であって、住宅とは生活の器であって、雨風・日射・外敵から身を守り、煮炊きをし、精神的にも落ち着いて日々を過ごすという、そういう目的のためにあるものであって、高価な対価を払って貧弱な家を手に入れるという要領で「産業」に隷属するなものではないはずです。
私たち日本の住まいは、室町時代にひとつのスタイルが定まり、江戸後期まで発展し、明治大正と受け継がれてきたのですが、この庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきたスタイルは、「部屋の大きさが決まれば、家の造り方が決まる」という何とも便利な仕組みだったのですが、この職人体制と一体になった「タタミ中心オープンシステム」とも呼べる仕組みを、戦争と住宅産業が壊したのであり、それ以降、このオープンシステムは、息絶え絶えであり、なぜ海外旅行から帰ってきて飛行機の窓から見る日本の風景が貧しく感じるかというと、そこには、「生活」が見当たらず、「産業」があるように見えるからで、里山の風景が美しく見えたり、倉敷美観地区の瓦屋根が美しく見えるのは、そこには「生活」があるからであり、掛ける値段は同じでも、手に入れる美しさや質の高さ、いつまでも使い続けたいと思う愛着のようなものは、「住宅産業」が造る住宅にはなく、「生活」から生まれた住宅がその成立過程において自然に身につけたものなのです。
「生活」から生まれた住宅というものは、新しくても風景に馴染むものであり、一個人が一生懸命考えたものよりも、室町以来の無限に近いひとのチェックを通って残って来たものの方が、より実際的現実的な回答であり、そういった日本の民家というものをベースにしつつ、現代の住まいを考えているのが私の事務所の考え方です。
それは「戦後の住宅生産体制」によってもたらされた「断絶」が、仮になかったとしたら、室町から続く日本家屋の伝統が現代にまで生き延びていたとしたら、どのような住まいがあり得るのだろうか、という視点を持ち建築デザインを行なう方法で、上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事で、特別につくるのではなく自然にできるものの方が良いとするもので、物質的にも精神的にも時間の経過に耐えられ、かつ見た目も美しく、そして建築主はもちろんのこと材料屋も含めて施工に携わるみんながハッピーになれる方法だと、そのように私は信じています。
 以上の考え方を基本にして、ヤマグチ建築デザインは活動しています。よろしくお願いします。

閉じるのではなく、開くのである。

児島の老舗喫茶店「ワーゲン」の店長が、「児島の会社は横の繋がりがとれてなくてだめですよねえ」、なんていうのは、長老・内田祥哉先生が数日前に日経の記事で「戦後に住宅メーカーが発足当時は、各メーカーが固定したモノを作っていたが、後に会社の枠の中での<自由設計>というモノを作り上げてきた。でも各社の枠内での<自由>だから、改造の依頼を受けた地域の大工では手が出せない。私が提唱したのは、会社の枠を超えたレベルでの<自由>でありオープンなものだった」といっていたが、彼ら先輩二人が指摘することの原因が何であるかについて、若輩者の私が、私なりに翻訳してひっくるめて言うと、産業から出発しているのが敗因であり、生活から出発すれば、それを打開できるはずである。
産業ではなくて、生活なんだよな。というのは、言い換えれば、閉じるのではなくて、開くんだよな、それがポイントだよ。ということになるが、<自由設計>が聞いて呆れるが、児島のジーンズストリートに、先日会社生命が失われた「ビッグジョン」がお店を構えることがついぞ実現しなかったのと同様に、住宅メーカーというのは、個別の利益を最大にすることが目的なので、手をつないで、仲良くしましょう、というのは、所詮無理な話だ。個人の付き合いでも、閉じた状態で交際もせず仲間がいないのは寂しいので、ある程度の礼儀・作法を経た上に、仲良くしましょう、という段階が訪れるのだが、利益優先の産業の場合、その作法というのは、損か得かであり、突き詰めれば、数字の世界であり、数学の世界であり、数学が哲学を持たないのと同様に、「損得」と「仲良く」というのは、相容れない要件であって、どう考えても、無理筋である。
下津井にある明治39年1906年)築の私の生家は、京町家のごとく、鰻の寝床スタイルであり、土間が玄関から奥までずうっと繋がっていて、一番奥には井戸と台所があるのだが、タタミの方式で、京間と関東間があるが、江戸時代にナウでヤングな街だった下津井の家は、京の香りがする「京間」別名「本間」方式をとっといて、この家の実測をしてよく分かったが、この家のタタミはどの部屋も同じサイズで、タタミの大きさを基準に建てられた「本間」であり、さすが、北前船の影響もあって独自の方言が発達する程の文化が栄えた下津井である。あじな(特徴のある)家である。
タタミを中心にしたオープンシステムというのが、かつてはあったのだが、つまりは、部屋の大きさが決まれば、家の造り方が決まる、という素晴らしい方式がかつてはあったのだが*1、この方式は室町からはじまり江戸後期に頂点を迎え、明治、大正と綿々と繋がってきたのだが、それを壊したのが、住宅を造るのは産業なんですよ方式であり、庶民の生活を規範にしてじわじわと長い年月をかけて積み上げてきた「タタミ中心オープンシステム」を、戦争と産業(つまりは金儲けか)で壊したのが、大間違いであり、インターナショナルスタイルのごとくに、上からやってきて世界どこでも同じものをつくるのではなく、下から作り上げるオープンシステムが、本来歩むべき王道なのである。
上からではなく下からであり、産業ではなく生活であり、閉じるのではなく開くことが大事である。わざに(特別に)つくるのではなく、自然にできるものが、耐力があり、美しく、みんながハッピーになれる方法である。

*1:この寸法感覚を持ち、木肌の美しさをコンクリートで再現してみせたのが、安藤忠雄先生であり、彼が世界で受けたのがこの二つのポイントである。つまりひとことでいうと「これはコンクリートで出来た木造住宅だ!わお、すごい!」という評価だったのだが、本人がどこまで狙っていたのかは正直ナゾだ笑。

銭湯営業情報


(左の暖簾のあるところが銭湯)

下津井田之浦にある銭湯の営業情報です。

  • 定休日:水、金、日
  • 営業時間:17時ー19時30分
  • 料金:大人410円

今日行ってきました。懐かしい銭湯ですが、ずいぶんと利用者が減っており、中で人に聞くと、一日に二十人もいないんじゃないか、とのことでした。男女合わせれば、40人を下回る、といった感じです。少し話していると、「おお?おまえはセンヨシの子かあ?」「じんさんは死んだらしいなあ。おまえは帰ってきたんかあ?」と聞かれるなど、依然として、居心地の良い故郷であります。その「ふるさと感」は、海外旅行から日本に帰ってきたときの、現実に戻るツラサみたいな「ふるさと」ではなくて、とても上手なカウンセラーに身を委ねて自分らしさを取り戻したような(そんな経験は無いのだが笑)、そんな感じでした。ありがとう、うれしいよおじさん。おじさんも、年取ったね。
営業情報を見て分かる通り、現代住宅には、立派な浴室があるので、銭湯などの出番は無くて、さらには、この地域の人口も減っているので(小学校区で3230人、2013年3月時点)、お休みの日が多く、時間も七時にはラストオーダーならぬ、ラスト入場、になるような状態です。

ある本の中から、この場所の50年前のカラー写真を拝借して、掲載します。

(1960年の写真)

(2013年の写真)

写真に依ると、一番右の(写真からはみ出ている)建物は全く同じに見えますが、銭湯は建て直しており、中央のお店(てんまさ、といいます)は、今は解体撤去されて、駐車場となっています。赤いポストが立っているところが、50年後の写真では、丸く形が残っているのがわかるでしょうか。あとは瀬戸大橋が出来ていたり、山の岩肌が緑で隠れているところでしょうか。
番台のおばさんは、さすがに年を重ねた分、皺が増え、また小太りになっていました。銭湯のお湯は熱くて、家に帰ってからもずうっと身体がほてっていました。いままで「なんとかの湯」などの名前で書かず、ただ単に「銭湯」としてか書いていませんが、正直言って、私はこの銭湯の名前を知らないのです。